Tags:

変容する画家 Salvatore Pulvilenti

Cultura Deep Roma Eccetera Intervista

Salvatore Pulvirentiは、彼の描く絵のインパクトもさることながら、その飄々とした風情、柔らかい物腰と常に紳士的な振る舞いに、いつもほっとさせられる画家です。ここ数年、制作を停止、沈黙していたそのサルヴァトーレ・プルヴィレンティの展覧会が、久しぶりにbibliotheで開かれ、展示された作品を観た途端にあっと驚いた。魔術的な色彩が踊るプルヴィレンティ・スタイルからは想像できない、『空』をも感じさせる『墨絵』が壁の一面を覆っていたからです。

プルヴィレンティの絵といえば、メタフォライズされた彼自身の記憶や無意識、シンボリックなオブジェクトが集積され、その世界の色や空間はひたすら濃密、きわどく危ういバランスが人々を魅了する。それが彼の絵に抱く、わたしの毎回の印象でした。放たれるエネルギーは強烈でありながら、しかし同時に気品があり、彼独特の、どこかアイロニカルな遊びが見え隠れする。そしておそらく、その『濃密』さとアイロニーは、彼の原風景であるシチリアの、太陽の光、大地に落ちる濃い影、そしてその地に繰り広げられた長い歴史、さらにローマで過ごした彼の時間に大きく影響されたのであろう、と想像していました。しかしそのイメージは今回、見事に打ち壊されることになった。

 

スクリーンショット 2016-06-08 12.38.35

Dopo la danza, 2005 olio su tela 140×20 cm collezione privata(2005年 ダンスのあと 個人蔵)

 

シチリアのカターニャで生まれたこの画家は、シチリアの美術学校を終えた後、ローマのAccademia di Belle Arti(ローマ美術大学)を卒業、イタリアの『鉛の時代』、激動の幕開けとなった69年から、制作活動に入っています。イタリアの70年代は、政治的混乱真っ只中の時代でありながらも、ローマにおける演劇、文学、音楽、映画、そして現代アートのシーンが活気を帯び、次から次へと新しい表現が模索された時期でもある。奥さまが日本人であることから、日本にも縁が深く、日本各地で数々の展覧会を開催。日本文化に造詣も深く、その作品に彼のルーツであるシチリアと日本がメタフォライズされていることを見抜く批評家もいます。また、プルヴィレンティは長きに渡り、Liceo Artistico (美術高校)で教鞭を振るい、ローマの若いアーティストたちを育ててきた人物でもあります。

 

IMG_3606

今回、Bibliotheで発表されたSalvatore Pulvilentiの作品。シチリアのカクタスと海と空が墨絵として描かれた。ローマ中心街にある、カルチャースペースbibliotheでは、Unum ー”Un Artista, Una grande opera(ひとりのアーティストと傑作)”と題された展覧会が開かれている。

 

さて、今回の展覧会のカタログに、ローマ大学サピエンツァの政治科学学部の教授であり、自身もまた画家でもあるTito Marciはこう書いている。以下、抜粋して意訳します。

夏の気だるい午後を想像するといい。海には波がつくる泡。湿りのある太陽。太陽がサボテンに支えられ、照り輝いている。空にはちいさい雲がふたつ。目をつぶると、目がくらむような純白にピントのぼやけた、か細い線が浮かんでいる。影のない光。この短い時間に、精神の非現実的な観念は、繊細であった時代の月日の明確な印象と融合し、瞬間、彼自身のやるせない不在(画家の生地であるシチリアに)は形となって満たされる。これがサルヴァトーレ・プルヴィレンティの画家としての最新の表現だ。彼の表現は、Cromatica(色彩)勢い、色の爆発から白へと移行した。この変化は、形こそ違うが、(Lucio) Fontanaに起こったことと同様、表現からあらゆる要素を取り除き、浄化し、観念化へと進んだということでもある。

また、展覧会を企画したFrancesco Gallo Massero(フランチェスコ・ガッロ・マッセロ)も「自らの内にある神性、そして宇宙の神性の深い謎を結ぶには(プロティノス:ネオプラトニズム哲学)、革新的な方法を使うのが理想だ」と、革命的な変化を見せたプルヴィレンティの表現に一文を寄せました。

実際、展覧会に集まった、彼の今までのスタイルを知っている人々からは驚きの声が上がった。3年もの間沈黙しながら、きわめて印象的に再び姿を現した画家の、このドラスティックな変容に、わたしももちろん大きな興味を抱きました。しかもプルヴィレンティは、あまり饒舌ではなくとも、話す機会に恵まれるたび、ハッとするようなヒントをあたえてくれる人物。イタリア人である彼の話しぶりを、こんな風に表現するのは適切ではないかもしれませんが、含みがあるというか、暗示的というか、時に『法話』を聞いているような気持ちにもなります。ゆっくりとした、音楽的な口調から、彼に流れるリズムが聴こえてきて、思わず時間を忘れて引き込まれる。

なにより、自分自身の表現の変化、つまり、自意識を超えた領域の変遷を、過去のスタイルに執着することなく、のびのびと打ち破るおおらかさには、小気味よさを覚えます。墨で描かれたひとつひとつの線の筆の勢いで出来る黒の濃淡で語られる、抽象としてのシチリア。そのシンプルなモノクロームの世界に、色彩、太陽、風、匂い、時間、画家のすべての想いが満ちている。彼が描いた新しい絵を前に、じっくりと話を聞いてみることにしました。

 

13147501_10153966769521609_3776528808378351536_o

オープニングで開かれたトークには、大勢の人々が詰めかけた。

 

沈黙の3年の理由

3年。今思えば長い時間だ。その間、私がずっと考えていたのは『浄化』。つまり自分自身を『浄化』しなければならない、ということだったんだ。そしてその浄化にどれぐらい時間を要するか、まったく見当がつかないまま毎日を過ごし、結局3年の歳月が流れたわけだがね。しかし何もしていないからといって、絵を描いていないわけではないんだよ。手は動かしていなかったが、実のところ絵を描いていた。もちろんキャンバスにではなく、私のアイデアのなかでね。

この3年間、それでも毎日スタジオには通っていた。そう、毎日。しかし一度も「描かなければならない」と義務を感じたことはないんだ。スタジオにいる時間は穏やかに過ごしたと言ってもいい。ところが、いつものようにスタジオに出かけたある日、全く予期することなく、自然に絵を描き始めることになり、それがわたしの新しい表現となったわけだ。展覧会のオープニングに来た女性に「この絵を描くのに、どれくらい時間がかかったんですか」と尋ねられたとき、だからわたしは「3年」と答えたよ(笑)。

私の絵画表現を振り返るなら、色彩、イメージが集積した画風を貫いた時期があった。それはまるで溶岩がみっちりと充満している火山が今にも爆発しそうな、濃密なものだったよ。その時期に比べると、今表現しようとしているのは、ある種『禅』的な、と言える世界かもしれないね。もちろん、この表現はこうしよう、と考えて生まれてきたわけではない。自分にとっての必然、生理的な欲求というか、無意識がわたしをこの表現に向かわせた。遠近法も、対象物も全てキャンセルするという表現へとね。

今回描いているのは、シチリアの風景ではまったくありきたりな3つの要素でもあるだろう? カクタスと海と空。しかしこれらをどのように表現するかが問題ではあったね。また、どんなマテリアルを使って表現するか、ということも重要だった。結局選んだのは紙と墨、elementare、つまり究極的にエレメント(基本)であるマテリアル。それらを使って、シチリアのエレメント(基本)を表現したということなんだ。

シチリアという自然

シチリアはわたしの自然であり、大地だ。おかしなことに離れれば離れるほど、シチリアこそがわたしの大地だ、と痛切に感じる。もはやほとんどシチリアへは帰ることがないにも関わらずね。正直に言うとね、シチリアへ旅することは、わたしにとってはあまり好ましいことではなく、一種の痛みを感じることでもあるんだ。シチリアへ旅する人はみな、風景、光、海に魅了され、すぐに島の虜になる。しかし残念ながら、僕がシチリアに旅して、すぐに反応するのはシチリアの言葉だからね。もちろん僕はシチリアの方言をすべて理解することができるから、人々の話す言葉の意味が押し寄せてくる。つまり、非常に強烈な、場合によっては暴力的な言葉が、シチリアへ着いた途端に耳に入ってくるんだ。

もちろん、ローマの方言に暴力的な部分がないとは言わないよ。シチリアから来たわたしがRomanesco(ローマ弁)の壁の内部に入り込むことはまた、非常に難しいことだとも言える。しかしローマの人間の会話というものには、アイロニカルな表現が多いから、攻撃的なニュアンスは、アイロニーに緩められるじゃないか。一方、シチリアの言葉には、アイロニーという概念はないんだ。すべてが強烈にダイレクトに迫ってくる。これはシチリアの風土、自然に関係しているのかもしれない。エトナ山の、あの荒ぶる様子を想像するといい。そして、海もまた、ある時突然怪物になる。そしてシチリアは、その事実を隠すことをしない。

 

スクリーンショット 2016-06-07 12.20.46

Al di sopra del mare, 2003 olio su tela 140×120 cm collezione privata(2003年 海の上 個人蔵)

 

また、海岸線には、地中海を渡って、アラブ、ギリシャ、フェニキア、ノルマンディ、とさまざまな文化が上陸しているだろう? 文化、思想の足跡をしっかり残しながらね。この事実もまた、土地に強烈さを与える要因となっている。シチリアに足を踏み入れた途端、わたしは瞬時にシチリアのすべてを体感することができるんだ。だから近年の自然破壊を見ると、とても哀しく、やるせなくなるよ。

シチリアで、わたしが最もホッと息がつけるのは、島の内部の農村部、いまだに昔ながらの巡りで人々が生活している地域だね。確かにその地域は現代の経済システムの基準から見れば貧しい地域かもしれない。しかし彼らはマテリアルな充足、という価値観とは全く異なる価値観を日常の哲学としている。つまり、ゆっくりと、速度の遅い、自然の巡りに沿った生活、いわばシチリアの伝統的な生活を送っているんだ。速度が遅いということは、慎重に考える時間がある、ということだからね。わたしはその速度の遅さに価値を見出す。

実際、スピーディにとどまることなく生産し、消費、消費と追い立てられる世界が何処へ向かっているのか、すでに我々はこの目で確かめているじゃないか。まさに大量自殺に向かっているようだ。そして我々は、行き先の分からない世界に、漠然とした不安を抱いて毎日を過ごしているというわけだ。それはもちろんイタリアだけの問題じゃなく、世界に覆う黒い雲だよ。だから今こそ、政治、経済、社会と言うものを誰もが再考し、再構築しなければならないと思っている。このままじゃ、世界はどうにもならないだろう。『ハーメルンの笛吹き」の笛の音に導かれて、世界じゅうの人々がウェーザー川に向かって歩いているようだ。今のシステムを変えることはかなり難しいだろうが、若い世代はそれをやらなければならないよ。彼らや彼らの子供たちがシステムの犠牲になってはいけないと思っている。

『鉛の時代』

わたしがローマで活動し始めた頃と、ローマが極端な混乱に巻き込まれた時期はほぼ同時だったんだ。あの頃のローマには、毎日恐怖に満ちた緊張が覆っていてね。ローマのような『権力の中枢』である都市に住んでいると、好むと好まざるに関わらず、その混乱に巻き込まれざるを得なかった。当時の衝撃的な記憶として、わたしに強烈に残っているのは、アルド・モーロ元首相が誘拐された朝のシーンだ。第一報を聞いた時、わたしは、Radio Onda Rossaというラジオを聴きながら、洗面所で出かける用意をしていたんだが、そのニュースを聞いたその瞬間、「最悪だ。これで終わりだ」と脱力したよ。いかに緊張が高まった時代だとはいえ、アルド・モーロという、同時のイタリアの政治中枢を担う最重要人物の一人が誘拐され、最後には殺害される、などというストーリーを誰が想像できたと言うんだ。

 

1984-galleria-iida-c

サルヴァトーレ・プルヴィレンティ 1984年

 

当時のローマは、政治的混乱の最中ではあったが、アート、デザイン、文学、現代音楽と、文化のそれぞれの分野に関わる人物たちが、出会う街でもあったんだよ。文化の交流にとっては非常に豊かな環境だった。さらに各分野の人々の間にもボーダーがなく、互いが自由に行き来していた。例えば誘拐されたアルド・モーロ元首相を、わたしはカンポ・ディ・フィオリの映画館で見かけたことがある。つまり各界の重要人物も普通に街を行き来していた、ということだね。しかし、その自由な空気もこの事件で完全に終わった。事件が起こった後、勤務していた美術アカデミーに出かけると、シーンと静まり返っていて、ローマ中がまるで砂漠のようだったよ。そしてこの事件が起こったのをきっかけに、街中に銃を構えた警官が並んだ。

『赤い旅団』が起こそうとした革命を、わたしは根本的には信じていなかったが、彼らの思想には、賛同する部分もあったんだ。いや、もちろんわたしは暴力には反対だが、思想だけを見れば彼らはファシスティックな全体主義を主張していたわけではなかったからね。しかし、彼らがテロに走り始めた時から、わたしは彼らのことが全く信頼できなくなった。ただね、アルド・モーロ事件に関して言えば、彼らのあまりにプロフェッショナルな行動に驚愕したことは確かだ。脅迫のプロセス、送られてくる書類、手紙、すべてプロフェッショナルで落ち度がない。いや、なさすぎた。つまり、この事件が、単純に革命を求める青年たちの手で企てられた、と考えるには無理があった。背後に非常に大きな力が潜んでいるに違いない、と感じたよ(注:アルド・モーロ事件については、先でリサーチをしますが、Youtubeに、モーロの友人であり、当時司法最高責任者だった人物が、モーロを殺害したのはテロリストたちではない、と発言する爆弾映像もみられます)。

記憶に根ざした『革命』

70年代のことだけれどね。わたしのシチリア時代の美術アカデミーの恩師にジュゼッペ・ジェフリーダという人物がいる。彼は共産主義者、ほぼアナーキストと言える人物だったんだが、シチリアに帰るたびにわたしは彼を訪ね、意見を交換し合っていた。ある晩、ピッツエリアに行く途中、海のほとりに建つ城の前で彼はわたしにこう言ったんだ。「サルヴァトーレ、教会に風が吹き込むのは構わない。しかし蝋燭の火を消してはいけない」つまり、彼はこう言いたかったんだ。「革命は起こさなければならない。それは義務であり、また我々の権利だ。しかし、社会の基盤である過去や伝統を壊すことは、我々の記憶を破壊することだ。記憶がなければ、革命そのものが成立しないじゃないか。我々は、自分たちのルーツを決して忘れてはいけないんだ」

 

スクリーンショット 2016-06-07 12.18.26

La terrazza di polifemo, 1997 olio su tela 30×35 cm collezione privata(1997年 ポリュペモス(食人種の一つ目の巨人)のテラス 個人蔵)

 

恩師がその夜言ったことを、結局わたしは、作品創りにおいて、今も踏襲しているということだよ。必要に応じて革命は起こすべきだが、そのルーツは決して忘れてはいけない。一般的にアーティスト、というと、いつも雲の中をふらふらとぼんやり生きていると思われがちだが、そうではないよ。むしろアーティストは大地にしっかりと足をつけ、自分の表現のすべてを認識していなければならない。自分の足元を確認していないとだめだ。そうでなければ、アーティストは手が入ることがない手袋のようなものになってしまうからね。

例えば60年代のアンディ・ウォーホール、ジャクソン・ポロックなどから始まったアヴァンギャルド・ムーブメントが素晴らしかったのは、彼らは自分たちのルーツを確実に認識していたからだ。わたしはポロックがイタリアに来た際に描いたデッサンを見たことがあるが、彼はイタリア中の美術館を巡って、ルネサンス、バロックの巨匠たちの絵を模写して、そこから学びを得ている。つまりわたしが言いたいのは、巨匠たちの作品も、ポロックの作品もルーツは同じところにある、ということでね。そしてそこを掴めば、どこへ行こうと構わないんだ。

ところで、わたしの精神を形成したシチリアの恩師が、もう一人いる。それはわたしがカターニャの美術アカデミーに通い始めたばかりの時に出会った教師、フランチェスコ・ランノという人物で、今でも深く印象に残っている。彼は自分が受け持つ生徒たちの作品を評価するのに、三段階の方法を取っていた。あまり出来の良くない作品にはF・Lと彼のイニシャル、まあまあの出来には、F・Lanno、非常に良い作品にはFrancesco Lannoとフルネームでサインをするという方法だ。その出来事が起こった日、わたしが提出した作品には、すべてフルネームが書き込まれ、そのうちのひとつの作品には、二回もフルネームが書き込まれた。わたしが仕上げたすべての作品は素晴らしい出来だ、と褒めてくれたわけだね。その評価が終わったのち、彼は「さあ、校長のところへ君を連れて行こう」と言った。つまり、わたしの描いた作品が素晴らしいので、校長に報告しに行こうということだ。

 

スクリーンショット 2016-06-08 13.46.07

Ieri, 1990-2007 olio su tela 120×100 cm collezione privata(昨日 1990ー2007 個人蔵)

 

クラスメートから喝采を浴びながら意気揚々と校長に会いに行き、絶賛されて教室へ戻った時だった。教室へ戻った途端、その教師は僕を振り向き、こう言ったんだ。「校長への報告も終わったことだし、ここでこの絵を破りなさい」「え?」 そんなことを命じられることなど、まったく予期していなかったわたしは、彼の言った言葉の意味が理解できなかったよ。(破る? まさか・・・先生は冗談を言っているんだ)それでも教師は顔色を変えず、「さあ、破るんだ」とさらに強く迫る。たった今絶賛された絵を破れ、と言われるなんてとんでもないことじゃないか。わたしが躊躇していると彼はいよいよ語調を強め、「さあ、破りなさい。冗談ではないよ。君にはその勇気があるのか」と繰り返す。クラスメートが「先生、許してあげてください」「そんなこと言わないでください」とざわめくなか、わたしが「嫌です」と何度言っても彼は許してくれなかった。まだ少年だったわたしは、その理不尽な要求にどうしようもない憤りを覚えて、顔を真っ赤にしながら絵をビリビリと破くと、そのまま泣きながら教室を飛び出した。

結局、わたしは彼の授業には戻らなかった。終業の鐘が鳴ったので、もうそろそろいいだろう、とそっと教室へ戻ったときだった。タイミングが悪いことに、その教師に鉢合わせしてしまったんだ。わたしは思わず身体をすくませたよ。さらに暴力的なことを要求されるかもしれない。あるいは教室から出て行ったことを叱責されるかもしれない。しかし彼は「ブラボーだ。よくやった」と静かに一言だけ言うと、大きな掌を僕の背中へそっと当て、そのまま廊下を歩いて立ち去った。

この出来事を理解するのに30年、いや、もっとかかったかもしれない。あるいは今でも実際のところ、よく理解できていないのかもしれない。ただひとつ言えることは、彼があの日、僕を救ってくれたということだ。もしあの日、彼が僕にあんな無茶なことを要求しなければ、僕はどうすれば他の人から絶賛される絵が描けるか理解し、すっかり慢心していただろう。しかし彼はわたしのその慢心を見破って、さらに自分の世界を深めていくよう、前に向かって進んでいくよう、手助けしてくれたんだ。あの時彼がそれを教えてくれなければ、わたしはあの時点で自分をブロックし、前に進むという努力を怠ったことだろうと思う。

つまり、彼が教えてくれたことを、暗喩として、わたし自身が今も行っているということでもあるんだ。自分で自分の表現を破り捨てては、次へ進んでいく。3年前まで育んできたスタイルを粉々に破壊して、ゼロから始める。こうして継続的にスタイルを破壊していくことがわたしには必要なんだ。だからそれを教えてくれた彼に、わたしは深く感謝しているよ。

危険な街、ローマ

ローマという街は、ここを訪れるすべての人々を抱擁する街だからね。誰もがすぐに街に馴染んで、他でもない、あの『ローマ』にいる、ということをひしひしと感じる。さらにローマで生まれたわけでもないのに、昔からこの街を知っているような気分にもなる。しかし数千年の歴史を生きたこの街は、disincantata、つまりもはや何の魔法も通用しない街でもあるんだよ。ここに住んでいることは、今現在、数千年の時間を同時に生きることと同様だから、時間に関して、あまり大きな感動、そして関心もなくなるんだ。ありきたりのことを言えば、例えば友達と「じゃあ、どこかで会おうよ」「いいね。いつでもいいよ」「では、明日」「そうだね、明日にしよう」と約束しても、あっという間に時間が過ぎて、何ヶ月も、あるいは何年も経ってしまうということになる。ローマの時間に酔うと、たちまちに迷ってしまうということは、しっかり自覚しておかなければならないね。

確かにローマの街の隅々を読む術を心得ていたなら、こんなにファンタスティックな街はない。太陽の光、影の歪み、街角の風景の物語、もちろんそこに積み重ねられた時間、それらすべてを読むことができれば、ローマは夢のように楽しい街だ。しかし自分自身の足元を常に確認していないと、あっという間に街に飲み込まれて、自分自信が何者なのか忘れてしまう。わたしも「絵を描く」という情熱がなければ、自分を見失っていたと思うね。そしてそうなることは、意外に簡単なことなんだ。

 

13173390_1166253893408735_5989478515000429013_o

立ち寄ったホテルで、飾ってある自分の作品に出会って。

 

特にアーティストにとっては非常に危険な街だ。ローマは始まりはしたが、終わることのない都市なのだから。つまり永遠の中、求めても求めても、目的地へたどり着くことは不可能だ。確実な結論はどこにも存在せず、決して満足することがない。だからAutodisciplinatoー自分でディシップリン=規則、ルールを作って、そのルールに沿って生きるより他ないんだ。わたしの場合は、自分に課したルールは、ローマとの関係をきっぱり断ち切って、毎日スタジオで仕事をすること。もし、そのルールを守っていなければ、なにひとつ作品を制作することはできなかっただろうと思うよ。ローマでは何もしないで生きることは、そう難しいことではないからね。なぜならあまりに美しく、街を歩きまわり、あちらこちらで踊り続けることは全く苦にならないし、疲れもしない。例えば、今日もこの場所に来るのに、通常なら15分で歩いてこれるはずなのに、一時間近くかかってしまった。歩く途中、時々立ち止まっては風景を眺め、観察し、魅了される、その繰り返しだ。いいかい? わたしはこの道を何百回も歩いているのに、だよ。

そういうわけでこの3年間、わたしはローマの街を歩きまわることをしなかった。スタジオには毎日通ったが、ギャラリーを覗きに行くこともなかったよ。そうしなければ、たちまちローマに飲み込まれることは目に見えていたからね。

 

スクリーンショット 2016-06-07 12.21.35

La porta sul mare, 2000 olio su tela 190×170 cm collezione privata(海への扉 2000年 個人蔵)

 

アートと社会、そして政治

アートと社会、政治というものは常に結びついているが、同時に全く関係がないとも言えるね。アーティストとして日常を生きる時、社会、政治を含める自分の周囲に漂う匂いを吸いながら生活しているわけだから、社会、環境の影響を、嫌でも受けるものだ。したがってアーティストは自分の周囲にある環境を吸い取るフィルターだとも思う。もちろん、これは絵に限らず、文学、建築、デザイン、すべての分野のクリエイターに言えることだと思うがね。知らず知らずにクリエイターに環境が入り込んで、それが作品に投影される。アーティストというものは、他の人々が見えないこと、感じないことをも知覚していることが多いから。しかし、注意が必要なのは、作品に意図的に社会を反映しようとしているのではないということだ。あくまで自然に反映されるようになる、ということ。

作品はもちろん、アーティストの人生、呼吸する空気、読むもの、巻き込まれた出来事、社会、コミュニティのありように影響を受ける。しかし同時にアーティストは、作品を創る過程、自分を取り巻くすべての要素を忘れ去るべきなんだ。それらが自ずと作品に投影されたとしても、作品となって初めて見えてくるものでなければならない。

例えばポロックやフォンターナを考えた場合、彼らは社会を思いながら作品を創ったわけではないからね。また、のちに社会に影響を与えたとしても、アーティスト本人は、社会のために、などという野心を抱いていたわけでもない。アーティスト自身の必然として、作品は生まれてくるものだ。このような意味においては、アーティストというのはエゴイストだね。作品を創る際に、社会問題を解決するなんて大義は決して持っていない。しかし同時に作品の持つセンシビリティ=繊細な感性がヴァイブレーションとなって、社会から共感を得るということが起こる。

完成された作品には、その作品が作られたプロセスというものは見えないものだよ。建築も同じだ。その建物に入って、どのように図面が引かれて、どのようなコンセプトがこのデザインを生んだか、などということは考えないだろう? そしてそのプロセスを匂わせないことが重要なんだ。絵描きであっても、詩人であっても、またクラシックのバレリーナであっても同じことだよ。軽々と舞うバレリーナの動きに、強靭な筋肉は見えない。肉体の重さも感じさせない。その『軽さ』が大切だと、わたしは思う。軽くなければ天には届かないじゃないか。

ジャーナリストがル・コルビジュエにこんなことを尋ねたそうだ。「マエストロ、一流の建築家と普通の建築家の違いはなんだと思いますか」ル・コルビジュエはこう答えた。「一流の建築とひどい建築の差とは、数ミリの違いでしかない」わかるかい? この数ミリの違いで、その建築が偉大なものになるか、凡庸なものに終わるか決まるんだ。数ミリが人々を感動させる。美と調和は、その違いの中に隠されているというわけだ。

アートとは、したがってその数ミリ、いや、もっとちいさい『差異』、かもしれないよ。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

RSSの登録はこちらから