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人が暮らす現代美術館: Metropoliz

Cultura Cultura popolare Deep Roma Occupazione Quartiere

ローマで『現代美術館は?』と言われて、すぐに思いつくのはフラミニオ地区のMAXXI、そしてテスタッチョ地区のMACROというところですが、実はもうひとつ、プレネスティーナ通り913番地に、土曜日だけ公開されるMAAMーMetropoliz(メトロポリツ)という巨大アートスペースがこっそり存在していることは、一般にはあまり知られていません。しかもそのスペースには、250人余りの人々がアート作品と共生しているのです。

このサイトをはじめて、ローマの『占拠』をすでにいくつか取り上げているので、余程のことがなければ、しばらく『占拠』関係には触れまい、と決心していたにも関わらず、その余程のことに再び遭遇してしまうことになりました。実際のところローマには、かなりの数の廃墟となった公共スペースの『占拠』が存在し、人の話やメディアの報道に、少し気をつけて耳を傾けると、次から次へと今まで知らなかった大がかりな『占拠』に出会うことになります。今朝も偶然、1ヶ月ほど前のエスプレッソ紙が、ローマ郊外の大がかりな『占拠』について、8ページものレポートを掲載しているのを見つけたところです。

そこで本題とは離れて、最初から余談になってしまうのですが、このところイタリア国内では、その『占拠』、特に市民に親しまれる有名な占拠の強制退去が相次いでいます。ローマでも12月に入ってからBaobabという、一般市民、医師、看護師、学生、アーティスト、少なくとも200人以上のボランティアが関わっていた、戦禍を逃れて欧州を訪れた、難民の人々の中継地サポートセンターが強制退去となりました。Baobabは、2004年、打ち捨てられた古いガラス工場を有志が占拠、長年の文化活動ののちに難民の人々の受け入れをはじめるようになり、2015年の年頭からは市民の自主管理で、難民の人々にトラベルキットまで配布する、本格的な救援活動が行われていた。

「一体誰が、『アンチテロリスト』特殊部隊まで導入しての、この強制退去を決めたのか知らないが、今まで国家予算を1ユーロも使わず、市民のボランティアだけで十分に機能してきたこのスペースを強制退去にすると同時に、市民の好意で集まった1トンのパスタ、200kgのビスケット、衣服倉庫、医薬品が詰まった戸棚ふたつも強制的に取り除かれた。忙しい日々のわずかな自由時間を難民の人々のために割き、医療活動をしていた医師、看護師もまた退去となっている。今までに35000人の難民ーその4分の1は、ボートで地中海を渡り、イタリアに到着した人々でもあるーをBaobabは受け入れている。しかもボランティアたちは、彼らの旅の途中の宿と食事を提供するだけではなく、ローマの中心街を一緒に散歩したり、サッカーの試合を観に行ったりと、何ヶ月もサハラを歩き、リビアでは牢獄に入れられ、拷問を受け、死を覚悟して地中海を渡ってきた人々を、人間同士の温かい抱擁で迎えていた。国家の介在のないボランティアだけの市民救援センターが十分に機能し、発展するということを示した素晴らしい例であったにも関わらず、『強制退去』にしたのは、まさにそのボランティア活動に国家が介在する余地がなかったからかもしれない。つまり国家にとっては目障りで邪魔な存在だから、根こそぎ消してしまおうとしているのだろう」(抄訳)

エスプレッソ紙のブログにジャーナリストのアレッサンドロ・ジリオリはこう書いています。このほかにも多くのメディアがBaobabの突然の強制退去に疑問を呈し、わたしの友人たちのFacebookタイムラインでも、残念がる声を多く見かけました。このように一般市民から多くの寄付を集め、大勢のスペシャリストを巻き込んだ、きわめて人道的な救援活動であっても不法には違いなく、『占拠』という政治活動には常に突発的な『強制退去』の脅威がつきまといます。むしろ発展的で影響力のある活動ほど、当局にとっては政治的な脅威となる。これから紹介する、巨大な現代美術館Metropoliz ーMAAM(Museo dell’Altro e dell’Altrove di Metropoliz)も、その、常につきまとう『強制退去』の緊張のなか、今まで多くのアーティスト、学者、有志の市民たちのサポートで維持されてきた占拠スペースです。また、イタリアだけでなく、各国から訪れた多くの著名な人物を含むアーティストたちが、この場所を占拠する人々を守るために作品を無償で残しています。

 

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閑散としたプレネスティーナ通りに突然現れる、MAAMを囲むウォールペイントされた高い塀。Fotografia Erranteより

 

「こんなところにこんなアートスペースがあったとは・・・・」
ローマの街のはずれにある、その場所にようやくたどり着いたそのとき、入り口の巨大な壁に描かれた絵を前に、思わず上を見あげて立ちすくんだ。わたしが行った土曜日は、その巨大な建物を囲む、延々と終わりなく続く側壁に、男女二人のアーティストが、ちょうど絵を描いているところで、周囲をカメラやビデオを手にした、数人の若者たちが囲んでいました。

ポルタ・マッジョーレ辺りからはじまるプレネスティーナ通りを、今やアンダーグラウンドミュージックの中心地となったピニェートを超え、ローマの南東にひたすらまっすぐ進むと、今まで両脇に並んでいた賑やかな商店が疎らになりはじめる。道路の真ん中を走っていたトラムの車線もいつの間にか脇に逸れ、突然道が狭くなり、と同時に風景がガラリと変わります。工場や大きな中古車屋、ゴミが積み上げられた空き地、量販を目的とした広大なスーパーマーケット、倉庫・・・そこに広がるのは色彩のない殺風景なローマ郊外の光景。そしてそんな郊外の風景のなか、忽然と現れるそのスペースは、外観は荒れ果てているとはいえ、ぐるりと囲む塀に隙間なくウォールペインティングが描かれ、他の建物とはまったくの異質です。壁に描かれたそれぞれの絵がそれぞれの主張を語り、無秩序ではありながらも有機的なエネルギーを放っている。

 

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延々と続く側壁に描かれるのは、人々の生命を蝕む市場至上主義を糾弾するウォールペインティング。

 

郵便受けがいくつか並んだ玄関の、いかめしい鉄門を開け、なかを覗くとアフリカ人の婦人がにこやかに立っていました。「美術館を見るなら、カンパをしてね」と箱を指差すので、財布を取り出して5ユーロを入れる。彼女は大きく頷きます。そこでようやく顔を上げ、辺りを見回したときの、その何ともいえない不思議な感覚は、行ってみないことには味わえない、と言っておきましょう。荒涼とはしながらも、建物の壁という壁、半分割れたガラス窓、コンクリートの地面、その巨大な空間の、ありとあらゆる隙間に多彩なウォールペインティングが描かれ、あるいは彫刻、インスタレーションが適当な間隔で置かれている。遠くには、多少斜めに歪んだ、張りぼてのロケットのようなものが、空に向かってすっくと聳えるのが見え、入り口からは、その広大なスペースがどこで終わるのか、まったく終わりがないように感じられるほど、果てしなく広がっています。

 

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入り口から奥へとすすむと、こんなロケットが現れる。

 

イタリアの近代美術にArte Povera(アルテ・ポーヴェラーそのままシンプルに訳すと「貧しいアート」という意味でも、実際はそれまでの伝統的な美術の既成概念を打ち破る、というコンセプチャルなアート表現です)という、今でも美術界に大きな影響を及ぼすアートムーブメントがあるのですが、このスペースに入った途端に、スペースそのものが巨大なひとつの作品、いや、アルテ・ポーヴェラ・ワールド、という印象を持った。アルテ・ポーヴェラは1960年代後半、イタリアの工業都市トリノから起こったアヴァンギャルドなムーブメントで、今では巨匠と崇拝されるBoettiKounellisFabroPaoliniなどが先駆となり一世を風靡、海外のアーティストにも大きな影響を与えた近代イタリアの重要なアートの潮流です。伝統的な絵画、彫刻の有り様を逸脱し、土、鉄、プラスティック、雑巾、木片、産業廃棄物などの『ポーヴェラーそれまで美術に使用されたことのない』な素材を使って、主にインスタレーションで作品が作られる。コンセプチュアルでも詩的な作品が多く、それぞれにひとつの世界観が提示され、Paoliniの作品などには、繊細な暗示が鏤められてもいます。

さて、Metropolizの内部、子供たちが群れをなして走り回る広場を通り過ぎ、辺りを歩いてみると、敷地内にはいくつかのPiazzaー広場がありました。それぞれの広場にはアフリカ広場、ペルー広場と名前がついていて、まるでローマ市内のような標識が掲げてある。どうやらこの敷地内には、あらゆる国の人々が住んでいるようです。広場の一角では、アーティストがバーナーを使って針金でレリーフを作っている最中。どこからか、オブジェらしい『白熊』を運んでくるスタッフもいます。建物の階段や道端に置かれたソファや椅子では、このスペースの住人らしき人々がくつろいで談笑していました。すでに多くの人々が入場して、あちらこちらを散策したり、写真を撮ったり、ウォールアートを見ながら「このアーティスト、有名な人だよ」「知ってる、知ってる、このタッチ、見たことがある」などと話している。観客のなかにはプロのカメラマンもいて、レフ版を持ったアシスタントを連れて、細部を撮影しているのを見かけました。

 

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建物に入って、すぐ正面のペインティング。Fotografia Erranteより

 

建物のなかに入って、わたしは再び嘆息することになります。薄暗く、じめじめと湿気のある、場所によっては下水の臭いがする巨大なラビリントに、行けども行けども、Mulares(ウォールアート)、インスタレーション、彫刻、写真、が展示され、終わることがない。普通の現代美術館では考えられないライトがほとんどない薄闇、あるいは自然光のなか、ポタリ、ポタリと水の雫が落ちる音が響く空間に、雑然と、無秩序に、管理されることなく作品が並んでいる。さらには建物の内部に残る、打ち捨てられ、赤く錆びた怪物のように大きな機械もインスタレーションの一部として作品化され、まるで幻想、異次元の世界です。

しかも建物内のスペースには、Mularesで有名な若いアーティストたちだけではなく、世界でも重要な画家や彫刻家たちの作品が、テーマもアーティスト名も提示されないまま同等に並んでいる。そしてその作品群の間に、住民のものらしい布団や毛布、洗濯物が干され、それがさらなる異景となって、一種独特の奇妙な空間を形成しています。壁画に覆われた中庭のひとつには(中庭はいくつもあるのですが)、作品と思われる木製のシーソーもあり、そこでも子供たちが歓声を上げて遊んでいました。建物の奥深くにある食堂もアート作品で溢れている。こんなユニークな美術館、アートスペースに出会ったのは、はじめてのことでした。

 

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いくつもある展示場の一室。

 

ローマにこんな場所があることを、わたしはつい最近まで知らなかったのですが、美術関係者やアーティスト、建築家や学者の間では有名なアートスペースで、ネット上にはコリエレ・デッラ・セーラ紙をはじめとするさまざまなメディア、あるいはブログ、美術サイトに、Metropolizに関する多くの記事、写真があふれています。現在までに、このスペースに関わったアーティストは約450人、そしていまでも多くのアーティストが次々と訪れ、作品は膨大に増えつつある。そこで「この建物は一体何なのか。なぜこんな場所に、こんなスペースが出来たのか。その経緯を知りたい」と、Metropolizのある地区、Tor Sapienza の文化センターの代表者であり、MAAMの運営スタッフの一人でもある、Carlo Goriにいろいろ話を聞いてみました。カルロ・ゴーリはMAAM以外にもさまざまなアートプロジェクトに関わる人物で、彼の活動については、先でインタビューをさせていただきたいと思っています。

 

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コンクリートと鉄骨という硬質な素材でできた中庭のインスタレーション。

 

このSpace Mitropolizが誕生した、そもそもの経緯は、2009年、20年近く廃墟となった『フィオルッチ』のサラミ工場跡を、家を失った、あるいは追われたイタリア人有志と、アフリカ、ウクライナ、モロッコ、ペルー、コスタリカから来た移民の人々がOccupazione、『占拠』したことにはじまるのだそうです。わたしの年代であれば『フィオルッチ』というと、先ごろ亡くなったファッションデザイナーを思い出しますが、イタリアでは、スーパーマーケットでよく見かける、一般に名前の通ったサラミメーカー。そういえば、展示スペースの中央あたりに、古めかしく錆びついた機械をそのまま、殺戮をイメージするインスタレーションとした作品や、豚が蘇るウォールアートがありましたが、オートメーションで豚を大量に屠殺した工場の由来を、シニカルに表現したものだったというわけです。

時が経ち、そのその工場が閉鎖され、まったく機能しなくなってからは、ローマ、そしてコペンハーゲンの地下鉄を建造、スエズ運河の建設にも関わったローマ屈指の建設会社、『サリーニ』の所有となり、使用されることなく廃墟として置き去りとなっていた。占拠グループのリサーチによると、そもそもフィオルッチのサラミ工場の建物はローマ市の公共予算の援助によって建造されたものだそうで、そのスペースは閉鎖されたあと、建造に投入された莫大な予算もそのまま泡となり消え去って、活かされることなく忘れ去られていたというわけです。また、工場跡が多くあるプレネスティーナ通り沿いは、戦後、ローマ郊外の産業地区として発展、工場で働く工員のための市営住宅が多く建造された地域で、周辺の工場が次々に閉鎖されてからは、たくさんの人々が住んでいるにも関わらず、市営住宅の数々はほとんど修復されずに、古びるままの佇まいとなっています。

 

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工場跡のなか、どこを通っても、作品にあふれている。

 

占拠者たちははじめから、水も電気もない、この巨大なサラミ工場に住み着くために『占拠』に乗り出したわけではなく、『住居の権利』を主張するためのデモンストレーションの一環として、Comunità meticcia (まぜこぜコミュニティ)、つまり『メトロポリターニ』による実験的抗議のつもりだったそうです。しかし長期間、その抗議は当局に聞き入れられることはなく、と同時に抗議者たちは自分たちの住居の問題を解決することもできず、結局そのまま居座らざるを得なくなった。しかし工場はやはり工場、住居としてはまったく用を足さず、天井はきわめて高く、巨大な壁に仕切られたひとつひとつの部屋はだだっ広く、住めるように修復するために大変な労力を要した。占拠者たちは工場に残っていた巨大な機械群を少しづつ分解、鉄資源として売り、広大な建造物を再生するための経済的なリソースとして利用しています。

はじめは比較的少人数ではじめた占拠でしたが、やがてチェントチェッレの公園を強制退去になったロムの家族、子供たちも加わって、250人ほどの住人がこの工場に住むようになります。もちろん、この『占拠』も一旦は厳しい強制退去の危機を迎え、土地の所有者である建築会社と話し合いの末、市の援助による他の住居を得て、『占拠』から出て行った人々もいました。しかしローマ市の、住宅を失った人々への社会福祉というのは、たとえば「ロムの居住区のために予算を使う」という名目で、その予算を市の責任者がマフィアに横流し、ローカル・マフィアBanda della Maglianaがローマ市の不動産、移民関連事業、ゴミ管理を暗に操り食いものにしていた『マフィア・カピターレ』という前代未聞のスキャンダルが起こったことからも分かるように、ソーシャルサービスとは言い難いもの。たとえばローマ市が提唱するHouse of Rom(ロムの人々の家)というプロジェクトは、違法居住区に住むロムの人々を強制退去にして、窓のない建造物に押し込めるような乱暴で、非人間的な政策でした。

 

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ロムの人々が住むスペースもすべてペイントされている。「ここ、わたしの家」というロムの少女に「この絵好き?」と聞いてみると、嬉しそうに「好き」と言っていた。

 

そういうわけで一旦は強制退去になった人々も、市から提供された住居のひどさに辟易し、このサラミ工場跡に少しづつ戻ってきています。そこで彼らは再び『メトロポリターニ』(マスメディアが彼らのムーブメントをそう名付け)住居運動を起こし、『住居の権利』を訴えるだけでなく、総合的な『人権運動』、『尊厳、教育、健康の権利の主張』へと発展させていきました。この『メトロポリターニ』運動は2012年、同じTor Sapienza地区にある廃墟となったホテルを、600人のアフリカ、ペルー、モロッコ、ルーマニア、ロム、コスタリカの人々が『占拠』した流れと合流したものだそうです。ちなみにこのホテルは4stelle hotel(四つ星ホテル – ITAかENGをクリックすると映像が流れます)として現在も占拠中です。

当初、周辺に住む人々は、この『占拠』を、多くの外国人が出入りする『得体が知れない場所』と恐れ、「ドラッグ中毒者、売春婦たち、あるいはトランスの売春婦たち、泥棒たち」、つまり犯罪者の巣窟とみなして近づかなかった。実際この地区には、有名なトランスの売春が行われている場所もあり、ドラッグの売買にまつわる犯罪も大きな問題となっています。そこで前述した、このTor Sapienza地区の文化センターを運営するカルロ・ゴーリらが『占拠者』たちの仲介に乗り出し、周辺の住人たちとの理解を深めるために、さまざまな工夫をはじめることになります。まず、スタッフたちは、たとえば占拠者の子供たちとともにインスタレーションを作って地区のカーニバルに参加するなど、子供たちから地区の住人たちに馴染むことで、占拠への『偏見』を払拭することに勤めた。またゴーリらはスタッフとともに、占拠者の子供たちのために図書館、イタリア語を学ぶコース、遊ぶ場所なども占拠スペースの内部にオーガナイズし、子供たちが健康的に成長できるよう、毎週他のスタッフとともにミーティングを開き、さまざまなプログラムを練っています。はじめはジッとして授業を受けるのも苦痛な様子だったロムの子供たちも、最近では真面目にコースに参加し、イタリア語での読み書きもすっかり上達したそうです。現在、子供たちが勉強するスペースは、Verocica Montanioなど、有名アーティストのインスタレーションに溢れる広々とした部屋です。

 

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スタッフが運んできた白熊に大喜びする子供たち

 

さて、この3ヘクタールの広大な工場地跡の『占拠』が現在のようなアートスペースに変化していったのは、まず2011年の9月、この占拠スペースに興味を持ったロンドン大学のDepartment Planning Unitが、サマーラボを開催したころからはじまります。このラボラトリーは、工場のふたつの建物を結びつける蝶番の役目をする2メートルほどの壁を、インスタレーションとして構築。その後2012年、この『占拠』に共鳴した、人類文化学者でもある映画監督ジョルジョ・デ・フィニス、ファブリッツィオ・ボーニがこの場所を訪れ、ドキュメンタリーフィルムを提案、占拠する人々と共に制作したことが、現在のMAAM(Museo dell’Altro e dell’Altrove di Metropoliz)誕生の基盤になりました。

 

*ドキュメンタリー「Space Metropoliz」トレイラー

 

「この地上に安心して暮らせる場所がないなら、いっそみんなで月へ行ってしまおう。いや、この場所に月を作ってしまおうじゃないか」という、アイデアからはじまったこのドキュメンタリーの制作のプロセスは、占拠者を巻き込むだけでなく、多くの大学の研究者、哲学者、宇宙物理学者、パフォーマー、アーティスト、カメラマン、建築家、作家をこのスペースに呼び寄せることになった。『占拠』されたこの場所を、いろいろな国から訪れた人々が暮らす、世界の循環から捨て去られたひとつの都市と見なし、その場所をアートを駆使して、国境も所有者もいない、人類すべての財産である『月』に変えてしまおう、この世の異次元を構築しよう、というシンボリックで実験的な試みでした。発案者のファブリッツィオ・ボーニとジョルジョ・デ・フィニスは次のように語っています。

 

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古代の洞窟をイメージさせるような通路に描かれたMulares

 

「僕らが今から語ろうとしているのは、ひとつのSFストーリー、と同時に共生の物語、政治的なムーブメントの共有なんだ。ひとつの『占拠』、そしてアートによる『挑発』、宇宙船と美術館の物語でもある」「僕たちには、ここに住んでいるメトリポリタンたちを守らなければならない義務がある。地上に住む人々は、彼らが世界のシステムの外側にあるこの場所でも、幸せに暮らせることを理解しようとしない。結局のところ、皆が彼らを怖がっている。いや、(その自由さと向こう見ずに)嫉妬しているのかもしれない。でも、彼らは外界と遮断されることに、すっかり疲れてしまったんだ。そこで僕たちは、ある天気のよい日に、そのバリケートを壊して、社会のエッジで暮らす家のない人々、仕事のない人々の健康や権利をまったく無視し続け、まるで脱水機のようにぐるぐる巡る都市から逃げ出すことにした。彼らの考えはとてもシンプルなもので、ロケットを造って月へ逃げようというものだった」「これが僕たちが考えたこのドキュメンタリーのストーリーの要旨。僕らはそのコンテクストのなかで、プレネスティーナ通り913番地に存在する、この『Comunità meticciaーまぜこぜコミュニティ』を語ろうと思ったんだ」

 

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「月というのは、まだ人類に荒らされていない白い紙のようなものだからね。そこで僕らは、哲学者、宇宙物理学者、宇宙飛行士、UFO研究家、ラディカルな建築家、10人ほどのアーティストたちに声をかけた。2012年、ウォール・ストリートが『占拠』された年のことだよ」「日々の暮らしが困難に満ちたものだとしても、Metropolizの住民たちは、僕らのちょっとした『挑発』に力強く応え、いっしょに空想を巡らせて、石油タンクで天体望遠鏡を作り、いつでも発射できるロケットをも創造した。なにより素晴らしい発見は、アートが世界を変えることができること、夢や想像は、みなが共有できる、誰をも排斥しないかけがえのないものであること、あらゆるすべてのものが、解放と変革のシンボルになりうる、ということを実感できたことだったんだ」

わたしがローマにおける『占拠』で、毎回感嘆するのは、仕事がなく、家を失い、市から何の保障もなく、社会から排斥されようとする人々を「こんなことはおかしいだろう。市がやらないのであれば、僕らが動くしかあるまい」とボランティアのグループが、いつのまにか自然に現れるということです。そしてそのサポートは少しも押しつけがましくなく、困窮した人々の状況をdrammatizzare(誇張)せず、苦難を共有し、喜びを分かち合い、助け合いながら、よりよい生活をめざして『闘おう』とする雰囲気が形成される。また、占拠スペースでは、イタリア人をはじめさまざまな国籍を持つ人々が、文化、精神性の違いから起こる、ちょっとした諍いを経験しながらも、やがてそれぞれが理解を深め合い、少しづつバランスを見つけていくのだそうです。

 

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したがってMAAMの人々は、互いが互いの文化をリスペクトしあい、大きな喧嘩もなく、ピースフルに暮らしています。実際、スペースで遊ぶロムやペルー、アフリカ人の子供たちは元気すぎるほど元気、屈託なく、物怖じもせず、アフリカ人のおばさんは、そのスペースを何度か訪れたわたしを「また来たのかい」と抱擁する。「アーティストからは2倍の値段をとります」と各国の言語で書かれたプレート(このプレートもまた作品の一部)が壁に並べられた食堂で、料理をつくるペルーの人々も、客にちょっとした冗談を連発し、リラックスして呑気です。もちろん、彼らは互いに仲良くしなければ、他に行く場所がないわけですから、国境、民族、文化、宗教を超えた『友愛』が義務でもある。しかし、よく考えると、地球上に住むわれわれも、いまのところ他に行く場所がないわけですから、70億人を突破した人口と環境破壊、しかも第3次世界戦争と、切羽詰まったこの時代、実のところ、互いの『友愛』しか生き抜く方法がないのではないか、とも考えます。

 

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Messaggero紙より

 

さて、このドキュメンタリーに参加したアーティストたちは、撮影後も増え続け、現在では450人(いまだに増え続けています)にも上っています。そのなかにはLuigi Ontani(ルイジ・オンターニ)、Michelangero Pistoletto(ミケランジェロ・ピストレット)などのイタリア美術界の巨匠、Gian Maria Tossatti(ジャン・マリア・トッサッティ)、Franco Losvizzero(フランコ・ロスヴィッゼロ)、Veronica Montanio(ヴェロニカ・モンタニオ)、Mauro Cuppone(マウロ・クッポーネ: タイトルに載せた『FART』の作者。英語Fartー放屁する、とArtをもじった言葉あそび)と、現代イタリア美術を代表するアーティストたちも含まれます。彼らは作品を創作する間、このスペースで『占拠者』たちと共に過ごしている。ヴェトナム戦争に作品で抗議したことで有名な、アルテ・ポーヴェラ・ムーブメントの最重要アーティストのひとりであるミケランジェロ・ピストレットは、4ヶ月もの間、このスペースに滞在しています。

 

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ランペドゥーサ島に実際に到着した難民船の船底が、中庭にそのままオ置いてある。

 

また、ローマのストリートアートで注目されるLucameleonte やイエメンから亡命してきたアーティスト、アラブ人でありながらアナーキストのAladinも参加。Aladinは、「神の存在を信じない」と公言したことで、イエメン政府から死刑を宣告され、ローマに亡命してきたアーティスト。ドキュメンタリーフィルムでは「時代が変わって、僕の想像していたフェリーニのローマはなかった。それにイタリアにはイエメンとは違う問題が、多くあることもわかってきたよ。アラブ世界には『占拠』なんてありえないけれど、僕はこのような共生は好ましく思っている」という趣旨のことを話しています。

もちろんMetropolizは、それでも不法占拠ですから、今までも何度となく強制退去の危機に直面していますが、当局も数多くのアーティストたちが残した、アート市場的にも価値のある、つまり10万ユーロを超える値がつく作品を含むアートスペースを無闇に破壊するわけにもいかず、常に緊張を孕むギリギリのスタンスではありながらも、いまのところ、その作品群に守られて、人々は平和な日々を送っています。なお、アーティストたちは材料費も含めて、すべて無償で作品をMetropolizに寄贈。それが現在のMAAM、この特殊な現代美術館の基礎となっているわけです。

 

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中庭の植物もインスタレーションの一部

 

ところで、わたしがMetropolizに行った日、ちょうどファブリッツィオ・ボーニとジョルジョ・デ・フェニスが先ごろ出版した本、『SPECE METRO-POLIZ』のプレゼンテーションが開かれていました。そのプレゼンテーションに参加し、本を購入したところ、そのなかにレナート・ニコリーニの評論を発見。70年代、ローマの街にヴァイオレンス・カルトが吹き荒れ、恐怖と悲しみが覆った『鉛の時代』を、Estate Romana(ローマの夏)というおおらかで、のびのびとしたイベントで、街の空気を一新、その後のローマの文化の流れを決定づけた建築家、そして政治家でもあった彼は、Metropolizにも一文を寄せていました。ローマのすべての市民にが分け隔てなく、自由に交流できるTeatro Sociale(社会的な劇場)を創出し、公共スペースを市民で平等に分かち合うことをめざしたこの知識人は、この映画が完成した2012年に、多くの人々に惜しまれながら亡くなっていますから、彼の生涯の最期に近い時期に書かれた文章に違いない。かなり長い文章なので、ところどころ略しながら意訳引用したいと思います。

 

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ふと見上げた暗い階段の天井にも、こんなオブジェが。

 

 

François(フランソワ)のロケット、ユートピアとディストピアの間。

ユートピアは一体どこにあるんだ?
ユートピアは、しかしこの言葉が持つそもそもの意味から考えるならーOu (non 否定)  Topos(luogo 場所)ー現実のあらゆる場所に存在しようがないのだ。突然、社会、経済、文化の状況が大変動、既存の制度が激震を起こしても、あらゆる場所が、どのような場所にも置き換わり得ないのと同じように、この場所、存在の特定の不可能こそが、ユートピアの『普遍』たる所以である。

しかしポストモダン、ポストイデオロギー、ポストメトロポリタンのわれわれが生きる文明において、この考え(本質的にはフランス革命ー時代の先駆けとなったーに強く結びついた啓蒙主義的な)は、多分もはや真実ではない。ユートピアの『普遍』、ポストユートピアは、成熟すら超越してしまった資本主義の傾向(堕落した)を、まったく拒否した『ディストピア』にとって代わられた。Marc Augè ( フランス人異民族学者、文化人類学者)の理論によると、ポストユートピアは大抵、メトロポリスの郊外、常にラディカルな変化のあるトポスなき世界に簡単に見つけることができるというのだ。

ディストピアに魅入られた場所・・・。この見えない場所の存在は、有名なラカンのエドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』に関するセミナーの言論に従属しているかもしれない。隠されたものは、存在する場を持たない。その場所にアクセスすることはできないが、目には見える、つまり完全に目に見える場所に隠された『盗まれた手紙』のように。ただ、この話は完全に逆転する・・・Metropolizの隠された住居は、彼らにとっては外界であり、また、外界が彼らにとっての住居でもあるのだから。
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ある土曜の朝、ジョルジョ・デ・フィニスとマッティア・ペッレグリーニに誘われて、僕はついにMetropolizにやってきた。長い間、そもそもフィオルッチのサラミ工場だったという理由から、僕の好奇心をそそった場所だ。Metropolizの存在は、スイス人の建築家Gioachino Ersochによる「死のための機械」、テスタッチョの『屠殺場』を想起させたからだ(現代美術館MACROは、家畜の屠殺場が、その形状、施設を残しながらスーパーモダンに改装され、ローマ市の重要な美術館のひとつとなっている)。サラミメーカーのフィオルッチは、60年代、70年代のはじめに、チェントチェッレの”ドン・クリスチオッテ”として、キリスト教民主党でキャリアを積み、老人となっても相談役としてローマ市政に関わった人物だが、そんな状況(産業の発展により好景気に恵まれた時代)、は、もはや跡形もなく消えた、遠い昔の話だ。そのころのローマはいまや存在しない。ローマが世界でも魅力的な街だった最期の残り火はオードリー・ヘプバーンが街にまぎれて『ローマの休日』に隠れることができたころ、あるいはオーソン・ウェールズが、オセロを撮る予算が降りるのをフラスカーティで待ちながら、撮影チームをシャンパンでもてなすことができたころだ。

一方、存在するのは、Invisibilita(不可視)であることが強いられてはいても、古くから残った街のあらゆるものを、疲弊しながらも、なんとか循環させようとする新しいローマ、移り気なアイデンティティの新しい形を探そうとしているローマだ。フィオルッチのサラミ工場は、住居としてMetropolizとなり、カンピドリオ(ローマ市庁のある)からは無視されたまま、さまざまな人種が『占拠』により共生する場所になった。しかもその場所には、通常のイタリア人家族に嫌がられ、ローマ環状線内にはなかなか住居を得られないロムのグループも共生しているというのだ。

Stalker(ノマド生活を観察する建築家グループ)による、低コストの実験的住居の提案がヴェネチア建築ビエンナーレに受け入れなかったのち、「僕らがここにいることが許されないのなら、どこに行けばいいんだ。月にでも行くしかないじゃないか」ということになった。

 

 

この『月へ行く』というコンセプトは、George MèLiésの映画のロケットから着想を得たもので、月は常に多くの詩人たちの最も偉大なシンボルともなっている。中国の李白の詩にも「月を指差すと、見てごらん、指は歪んでいる」とある・・・。こうしてMetropolizのアート作品は、月というサインのもとに創作されることになった。月には人間が失った思慮、知恵がある、とルードヴィコ・アリオストが言ったように、Metropolizは、本来ならローマの公共財産が解決すべきでありながら、すっかり失われている思慮を持った場所でもある。

遠くからこの場所を見ると、Hogreがデザインした塔がまず最初に見え、矢印が空を指し、人が月へ向かう。その頂上にGian Mario Tosattiが創った天体望遠鏡が設置されてある。塔は、もし強制退去で当局がなだれ込んできた場合、『占拠者』たちの最期の逃げ場でもあり、当局からの警告は、いまだ停止することはない。入り口の部分にあるSten&Lexのウォール・ペインティングは「月の人々へ」と献辞され、Fabio Pennacchiaは月の菜園を創った。Casa dell’ArchitetturaにアーカイブされているストリートアーティストLucameleonteが、食堂の一面の壁を50年代SF雑誌のパルプな表紙に描かれるようなタッチで『宇宙への楽しい冒険』、月の住民と植民地支配する者たちの闘いを描いている。またイエメンからの亡命者、Aladin(どうやら彼のいた北イエメンで、彼は大臣の右腕にまでなった人物らしいが)は月の上のMetropolizを描いた。

 

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Lucameleonte作品『宇宙への楽しい冒険』

 

そしてどうして今、僕がMetropolizに関する、こんなメモをとっているかというと、実はこのMetropolizで、僕の幼きころの友人、Maurizzio Françoisーマウリッツィオ・フランソワのロケットをついに見つけた、と感じたからだ。それは小学二年生のころの話だ。クラスの友達であるマウリッツィオは、いつも電話で、僕に何かよくわからない騒音を聴かせてくれた (そのころ母は、僕を彼の家に遊びに行かせてくれなかったのだが):マウリッツィオは「今、月に行くためのロケットを創っているところなんだ!これがその音だよ。創り終わったら、一緒に月に行こう!」そう僕に言い続けた。それからの僕といえば、マウリッツィオの言う月のことばかりを考え、毎日熱望し、と同時に信じられない気持ちでいっぱいだった。ある日のこと、ようやく母親から彼の家に出かけてもいいと言われ、僕は興奮してそれをマウリッツィオに学校で伝えることが実現した。僕はいよいよ月に行く、という現実に胸を膨らませながら、その日の夕方、家を出るまえに彼に電話をかけると(僕らはその日のうちに月に出発することにしていたので)いつもの騒音がしない・・・。「お手伝いさんが捨てちゃったんだ!」彼は残念そうに言った。

 

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ほら、僕はあのマウリッツオ・フランソワのロケットを、遂にMetropolizで見つけた! アルド・ロッシ(建築家)の世界劇場のなかに(1980年のヴェネチア・建築ビエンナーレのインスタレーション)、Mèliésのスケッチのなかにある、先が丸い、丸い重りのついた、あのロケットを。そしてそれを飛ばすには、ただ子供の気持ちに戻るだけでいいんだ。

 

Aladin

イエメンから亡命したストリート・アーティスト、Aladinの作品

 

一日中、スペースを散策して、すっかり暗闇に包まれる時間、案内をしてくださったカルロ・ゴーリとともに乗った帰りのバスで乗り合わせた、Metropolizの住人であるイタリア人の婦人と話すうち「Metropolizは素晴らしい場所なんだよ。悪口を言ったら許さないからね!」と念を押されました。そういうわけで、今回の項を、細心の注意を払って書いてみましたが、実際のところ、批判するような部分も見つからず、荒れ果て趣、少し下水と、カビ臭さのリアリティで、より深みのあるVita(生命)を感じた。「生きて、呼吸して、老いていく」オペラに守られた、無秩序ながらハーモニーのある、いままで知らなかったアートスペースへの冒険の旅に、相変わらず不思議な、しかし温かい気持ちで、帰路についたことを付け加えておきたいと思います。

 

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ある角度から部屋を見ると、LE SPACE EST A VOUS. スペースは君たちのものだ、と文字が浮き上がるフランス人アーティストによる作品。

 

 


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