ローマのユダヤ人と難民の人々 : Shoah ショーア

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ソ連の兵士たちによりアウシュヴィッツー強制労働収容所の扉が開かれ、囚われの人々が解放された1945年の1月27日。その日を、国連は「Shoah(ユダヤ語)ーホロコースト」の犠牲者たちを追悼するインターナショナル・メモリアル・デーとすることを、2005年に正式に認定(イタリアでは2000年から)しています。したがって1月27日には毎年世界各地で、ホロコーストの犠牲者たちを悼むさまざまな催しが開かれています。もちろんイタリアでも、その日を挟む数日間は、学校、美術館、図書館をはじめとする公共施設で、数多くの映画の上映や展示会などが開かれ、過酷な歴史のリアリティをもう一度、胸に刻む一日となっています(写真はローマの Ghetto -ゲットー地区の路地、壁を飾るユダヤ教のシンボル)。

イタリアでは毎年、1月27日が近づくと、新聞、テレビをはじめとするマスメディアから、いまや高齢となられたアウシュビッツの生還者の方々の証言エピソード、絶望、拷問、無造作に積み上げられた亡骸の山、と直視することがきわめて困難な、衝撃的な映像や写真が繰り返し流れてきます。しかしそれらはまた、ひとたび常軌を逸すると、狂気と残忍が日常となりうる人間の底なしの闇を、嫌というほど再確認することができる貴重な記録です。このメモリアル・デーには、大統領府やローマ市庁舎をはじめとするイタリア全国で、ショーアの犠牲者を悼むセレモニーが毎年開かれています。

ところで話は少し脇に逸れますが、いま話題の、遠藤周作の原作をマーチン・スコセッシ監督が映画化した「沈黙ーサイレンス」をローマで観ました。その夜、久々に原作をも読み返して、「信仰」というものを熟考させられると同時に、人間を翻弄する、善悪では裁くことができない矛盾、そしてドグマという「正義」が迷い込む袋小路をも考えさせられることになりました。「沈默」の冒頭、穴吊りのシーンは、「わたしはローマを訪れた中浦じゅりあん神父だ」と最期の言葉を毅然と残し、穴吊りに処され殉教した天正遣欧少年使節団のひとり、中浦じゅりあんを想起しましたが、キリストの歩いた道をなぞる「殉教」という信仰の証を立てたじゅりあんは、2007年にカトリック教会から「福者」として認定され、列福しています。

カトリックの布教を隠れ蓑とした、欧州勢力の日本侵略を怖れる秀吉から、徳川幕府へ引き継がれた「バテレン追放令」は明らかに政治的な異人、異文化排斥と認識しています。その大義のもと、社会を侵食する異物、敵、危険分子とみなされるキリシタンへの容赦のない弾圧を、改めてインパクトの強い映像で見せつけられ、まったく悪意なく、正義を確信する権力サイドの残虐に(日本人俳優陣もあまりに上手くて)、やりきれない思いというか、諦めというか、そんな気持ちを抱いたというのが正直なところです。

実際のところ、そのかたち、内容は変われど、今も昔もほとんど変わることなく、「大義」を振りかざした宗教弾圧市民弾圧、そして紛争、戦争が、世界中の各地で繰り広げられています。その犠牲となる人々の大部分は、たいてい日常を普通に暮らす市民であり、子供たち、お年寄りです。いわば人間の原始的な本能とも思える、「支配不可能な未知の世界を持つ人々」への恐れから生まれる拒絶差別排斥というアイデアは、理性のコントロールを失うと歯止めが効かなくなり、とどまることない攻撃、蹂躙、抹殺という狂気に向かってエスカレートする。そこに資源の利権、地政学的な利害が絡めばなおさらです。歴史において、何度も繰り返されたジェノサイドの、歴然とした記録があるにも関わらず、世界からそのアイデアがなくなる様子は一向になく、これほど情報が世界に満ち溢れているというのに人間は学びません。

何はともあれ11月、映画の完成に伴いスコセッシ監督は、ヴァチカンでフランチェスコ教皇に謁見。教皇は「世界中で成功しますように」と監督を祝福し、監督は「あなたの霊感とともに(世界中で成功しますように)。サンタ・パードレ』と答えた、と報道されました。ヴァチカンが発行する新聞L’osservatore romano(オッセルヴァトーレ・ロマーノ)も「きわめて雄弁な沈黙」と題して、スコセッシのインタヴューを掲載。ヴァチカン、イエズス会のパードレ(神父)たちを観客に試写会も行われています。

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コロッセオのそばに残る凱旋門Arco di Tito の古代ユダヤ人のレリーフ。シンボルである椰子の形をした燭台(Manolah)を担ぐ人々の姿が彫り込まれている。

さて、ローマのユダヤの人々の話に戻ります。1600年代の日本では迫害されたキリシタンの本山、つまりカトリック教会の教皇が、欧州全土にその政治権力を増大させるにしたがって、ユダヤ教の信徒たちを、「キリストをにした」加害者たちとして、近親憎悪のごとく厳しく迫害し続けた(一方では、利用しながらも)長い歴史があることは周知のことです。

2000年というディアスポラを経験しながら、ローマにおいてはもちろん、他のどの土地においても、固有の宗教と民族の連帯を崩すことなく、度重なる迫害からアイデンティティを守り抜いたユダヤの人々は、他に類を見ない特殊な歴史を持つ民族です。以前、その秘密を知りたいと、ユダヤ人学者も参加しての「ディアスポラにおけるアイデンティティの維持」をテーマにした講演を聞きに行った際、生き代わり死に代わり、強固なアイデンティティを守り続けることができた大きな要因として、ユダヤの人々が頑なに守り続けた聖書における「律法」の研究、「ユダヤ暦」に沿った儀式、「言語」の、3つの指摘が印象的でした。

それにしても国土という物理的な基盤のない民族が、激しい迫害に晒されながら、2000年(!)という、気が遠くなるような時間、他国に暮らしながらも共同体のアイデンティティを保ち、「信仰」を絆に、遠く離れ離れになった他の土地に住む同胞たちとのネットワークを構築、強い連帯感を持っていた、という事実は、驚異的なことです。考えようによっては、世界じゅうどこにいても、ネットでヴァーチャルに繋がっている現代のコンセプトを先取りしていると言えるかもしれない。また、紙幣株式などもユダヤの人々が生き抜くために編み出したシステムですし、近代における経済、思想、人文、科学の分野におけるユダヤ人学者たちの貢献は言うまでもありません。ユダヤの人々の存在なくしては、現代の世界は違う形になっていたかもしれないと思うぐらいです。

実際、サルトルの著作をはじめ、ユダヤの人々について考察した書物、また映画、ドキュメンタリーが星の数ほどあります。またその歴史の特殊性、強固なアイデンティティと連帯、巨大な財をなし、国際経済に大きな影響を与えるファミリーや投資家を輩出しているせいか、いまだに「ユダヤーフリーメーソンーイルミナティ説」なども根強く語られ、ネットでリサーチすると、読みきれないほどのまことしやかなサイトが次から次に発掘できます。もちろん、善意に満ちた信仰のみで、2000年のディアスポラを生き延びることはできなかっただろうことは想像に難くありませんが、巷間で語られる裏付けのない妄想のような陰謀論は、時代がかった、いまさらな話題のように思います。

そういうわけで、ここでは1948年に建国されたイスラエル以降の、現在進行中の中東情勢に関しては触れないまま、ローマのユダヤの人々の動きのみを追っていきたいと思います。

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ダビデの星を形どったアクセサリー・ショップやレストランが並ぶ、2017年のローマのゲットー地区。

いまやシックな趣になりながらも、ユダヤ教のシンボルである六芒星、つまりダビデの星や椰子の木を模ったアクセサリーを売る店や、レストラン、ピッツェリアが軒を並べる、ユダヤの文化が色濃く残るローマのゲットー地区。そのトラステヴェレ沿いにあるシナゴーグユダヤ美術館を訪ね、ローマのユダヤ人コミュニティの歴史をガイダンスしていただきました。シナゴーグに隣接したユダヤ美術館は、ちいさくとも、われわれにはまったく馴染みのないユダヤ文化や、古代ローマとの関係を物語る品々、写真が多く展示され、ローマにおけるユダヤ教を大きく俯瞰できる興味深い美術館です。以下、まずはざっとしたローマのユダヤの人々の歴史を、ローマのユダヤコミュニティのサイトをも参考にさせていただき、振り返ってみたいと思います。

古代ローマとユダヤ教

ユダヤ教は、紀元前16世紀、唯一神 D-oを信じるアブラハムが属したセムの部族で生まれた宗教ですから、つまり3600年(!)もの歴史を持つ宗教です。ユダヤ戦争、エルサレムの陥落を機に、大挙してディアスポラしたユダヤの人々のグループは、大きくアシュケナジー(東欧系ユダヤ人)、セファルディム(スペイン系ユダヤ人)に分けられますが、ローマのユダヤの人々は、いずれのグループにも属さない Ebrei Romani (ローマのユダヤ人)としてのアイデンティティを貫いているのだそうです。

また、聖書のTora(モーセ5書)、 Nevlim(預言書)、Ketuvim(聖人伝)、Mishanà(ユダヤ教のテキストを読み、それを復唱する)、Takmud ( ユダヤ教における議論などを著した聖なる書物)を基礎とした、ローマのコミュニティにおける2000年のユダヤ教研究は、ユダヤ文化全体に大きく貢献しています。現在でもシナゴーグに信仰者10人集まれば、研究議論を行うことができるシステムとなっているそうです。

なによりローマのユダヤ人コミュニティは、欧州最古のコミュニティで、紀元前2世紀にはすでに古代ローマにおいて共同体を形成したという記録があります。ジュリオ・チェーザレの時代(紀元前100年〜44年)には、比較的優遇され、彼らがパレスティーナ(カナンの地)の同胞たちに金塊を送り援助をしたことをキケロが書き残してもいます。また、カリグラの時代(紀元37年〜41年)、ローマにはすでに8000人のユダヤ人コミュニティがあったとされ、当時ローマで暮らしていたユダヤ人たちは、商人として、地中海沿岸のギリシャ、フェニキアとの通商の架け橋を担っていました。つまりローマにおけるユダヤ人コミュニティは、カトリック教会の成立より、はるかに長い歴史を持つ共同体であり、現在でもアッピア街道やモンテベルデには古代のユダヤ人コミュニティのカタコンベ(墓地)、地中海の商人たちが集まったオースティアには、シナゴーグの遺跡を見ることができます。

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アッピア街道に残る、古代ローマのユダヤ人コミュニティ、カタコンベ(墓地)。

前述しましたが、ディアスポラという、ユダヤの人たちにとって大きな歴史の変化のはじまりとなったのは、紀元 66年から73年にわたる「ユダヤ戦争」です。当時ローマ帝国の支配下であったパレスティーナの地で起こったユダヤの人々の反乱を、ヘロデ王の孫、アグリッパ2世が率いたローマ帝国軍が鎮圧し、エルサレムは陥落。その後も続いた戦争で敗者となったユダヤの人々は捕らえられ、生き残ることが困難であった荒地「サルデーニャ」など僻地にも送られている。そのときローマに送られた人々は奴隷としてコロッセオ建造に従事させられています。また、ユダヤ戦争で捕虜となった多くのユダヤ人たちは奴隷として売り飛ばされ、中東の奴隷市場はユダヤ人売買でいっぱいになったとも言われている。その後も長くユダヤ人奴隷の売買は続きましたが、そもそもローマの地に移住していたユダヤ人たちが共同でお金を集め、市場で売買されるユダヤ人奴隷たちを買い戻すという動きがあったそうです。

一方、コンスタンティヌス帝の時代まで、ローマに渡ったユダヤ人のうち、キリスト教を信仰していた人々、また、キリスト教に改宗したローマ人信徒たちは、激しく弾圧され、多くの殉教者を出しています。このキリスト者たちの受難に終止符が打たれるのが、紀元313年、コンスタンティヌス帝とリキニウスが締結した「ミラノ勅令」。この勅令によってあらゆる宗教の信仰認められるようになり、それまでユダヤ教カルトにしかすぎなかったキリスト教が公認されることとなりました。つまりこの勅令が、その後キリスト教が全欧州に浸透する起因となり、紀元395年ローマ帝国国教と認定されたのち、キリスト教はたちまちのうちに政治勢力を拡大させ、ユダヤ教を信仰する人々を敵対視するようになっていきます。

▶︎カトリック教会との確執と迫害

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