ローマのユダヤ人と難民の人々 Shoah

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ソ連の兵士たちによりアウシュヴィッツー強制労働収容所の扉が開かれ、囚われの人々が解放された1945年の1月27日。その日を、国連は『Shoah(ユダヤ語)ーホロコースト』の犠牲者たちを追悼するインターナショナル・メモリアル・デーとすることを、2005年に正式に認定(イタリアでは2000年から)しています。したがって1月27日には毎年世界各地で、ホロコーストの犠牲者たちを悼むさまざまな催しが開かれる。もちろんイタリアでも、その日を挟む数日間は、学校、美術館、図書館をはじめとする公共施設で、数多くの映画の上映や展示会などが開かれ、過酷な歴史のリアリティをもう一度、胸に刻む一日となっています(写真はローマの Ghetto -ゲットー地区の路地、壁を飾るユダヤ教のシンボル)。

イタリアでは毎年、1月27日が近づくと、新聞、テレビをはじめとするマスメディアから、いまや高齢となられたアウシュビッツの生還者の方々の証言やエピソード、絶望、拷問、無造作に積み上げられた亡骸の山、と直視することがきわめて困難な、衝撃的な映像や写真が繰り返し流れてくる。しかしそれらはまた、ひとたび常軌を逸すると、狂気と残忍が日常となりうる人間の底なしの闇を、嫌というほど再確認することができる貴重な記録です。このメモリアル・デーには、大統領府やローマ市庁舎をはじめとするイタリア全国で、ショーアの犠牲者を悼むセレモニーが毎年開かれています。

ところで話は少し脇に逸れますが、いま話題の、遠藤周作の原作をマーチン・スコセッシ監督が映画化した『沈黙ーサイレンス』をローマで観ました。その夜、久々に原作をも読み返して、『信仰』というものを熟考させられると同時に、人間を翻弄する、善悪では裁くことができない矛盾、そしてドグマという『正義』が迷い込む袋小路をも考えさせられた。『沈默』の冒頭、穴吊りのシーンは、「わたしはローマを訪れた中浦じゅりあん神父だ」と最期の言葉を毅然と残し、穴吊りに処され殉教した天正遣欧少年使節団のひとり、中浦じゅりあんを想起しました。キリストの歩いた道をなぞる『殉教』という信仰の証を立てたじゅりあんは、2007年にカトリック教会から『福者』として認定され、列福しています。

カトリックの布教を隠れ蓑とした、欧州勢力の日本侵略を怖れる秀吉から、徳川幕府へ引き継がれた「バテレン追放令」は明らかに政治的な異人、異文化排斥と認識しています。その大義のもと、社会を侵食する異物、敵、危険分子とみなされるキリシタンへの容赦のない弾圧を、改めてインパクトの強い映像で見せつけられ、まったく悪意なく、正義を確信する権力サイドの残虐に(日本人俳優陣もあまりに上手くて)、やりきれない思いというか、諦めというか、そんな気持ちを抱いたというのが正直なところです。

実際のところ、そのかたち、内容は変われど、今も昔もほとんど変わることなく、『大義』を振りかざした宗教弾圧、市民弾圧、そして紛争、戦争が、世界中の各地で繰り広げられている。その犠牲となる人々の大部分は、たいてい日常を普通に暮らす市民であり、子供たち、お年寄りです。いわば人間の原始的な本能とも思える、「支配不可能な未知の世界を持つ人々」への恐れから生まれる拒絶、差別、排斥というアイデアは、理性のコントロールを失うと歯止めが効かなくなり、とどまることない攻撃、蹂躙、抹殺という狂気に向かってエスカレートする。そこに資源の利権、地政学的な利害が絡めばなおさらです。歴史において、何度も繰り返されたジェノサイドの、歴然とした記録があるにも関わらず、世界からそのアイデアがなくなる様子は一向になく、これほど情報が世界に満ち溢れているというのに人間は学びません。

何はともあれ11月、映画の完成に伴いスコセッシ監督は、ヴァチカンでフランチェスコ教皇に謁見。教皇は「世界中で成功しますように」と監督を祝福し、監督は「あなたの霊感とともに(世界中で成功しますように)。サンタ・パードレ』と答えた、と報道されました。ヴァチカンが発行する新聞L’ossarvatore romanoも『きわめて雄弁な沈黙』と題して、スコセッシのインタヴューを掲載。ヴァチカン、イエズス会のパードレたちを観客に試写会も行われています。

 

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コロッセオのそばに残る凱旋門Arco di Tito の古代ユダヤ人のレリーフ。シンボルである椰子の形をした燭台(Manolah)を担ぐ人々の姿が彫り込まれている。

 

さて、ローマのユダヤの人々の話に戻ります。1600年代の日本では迫害されたキリシタンの本山、つまりカトリック教会の教皇が、欧州全土にその政治権力を増大させるにしたがって、ユダヤ教の信徒たちを、「キリストを磔にした」加害者たちとして、近親憎悪のごとく厳しく迫害し続けた(一方では、利用しながらも)長い歴史があることは周知のことです。

2000年というディアスポラを経験しながら、ローマにおいてはもちろん、他のどの土地においても、固有の宗教と民族の連帯を崩すことなく、度重なる迫害からアイデンティティを守り抜いたユダヤの人々は、他に類を見ない特殊な歴史を持つ民族。以前、その秘密を知りたいと、ユダヤ人学者も参加しての『ディアスポラにおけるアイデンティティの維持』をテーマにした講演を聞きに行った際、生き代わり死に代わり、強固なアイデンティティを守り続けることができた大きな要因として、ユダヤの人々が頑なに守り続けた聖書における『律法』の研究、『ユダヤ暦』に沿った儀式、『言語』の、3つの指摘が印象的でした。

それにしても国土という物理的な基盤のない民族が、激しい迫害に晒されながら、2000年(!)という、気が遠くなるような時間、他国に暮らしながらも共同体のアイデンティティを保ち、『信仰』を絆に、遠く離れ離れになった他の土地に住む同胞たちとのネットワークを構築、強い連帯感を持っていた、という事実は、驚異的なことです。考えようによっては、世界じゅうどこにいても、ネットでヴァーチャルに繋がっている現代のコンセプトを先取りしていると言えるかもしれない。また、紙幣や株式などもユダヤの人々が生き抜くために編み出したシステムですし、近代における経済、思想、人文、科学の分野におけるユダヤ人学者たちの貢献は言うまでもありません。ユダヤの人々の存在なくしては、現代の世界は違う形になっていたかもしれないと思うぐらいです。

実際、サルトルの著作をはじめ、ユダヤの人々について考察した書物、また映画、ドキュメンタリーが星の数ほどあります。またその歴史の特殊性、強固なアイデンティティと連帯、巨大な財をなし、国際経済に大きな影響を与えるファミリーや投資家を輩出しているせいか、いまだに「ユダヤーフリーメーソンーイルミナティ説」なども根強く語られ、ネットでリサーチすると、読みきれないほどのまことしやかなサイトが次から次に発掘できます。もちろん、善意に満ちた信仰のみで、2000年のディアスポラを生き延びることはできなかっただろうことは想像に難くありませんが、巷間で語られる裏付けのない妄想のような陰謀論は、時代がかった、いまさらな話題のように思います。また、ここでは1948年に建国されたイスラエル以降の、現在進行中の中東情勢に関しては触れず、ローマのユダヤの人々の動きのみを追っていきます。

 

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ダビデの星を模ったアクセサリー・ショップやレストランが並ぶ、2017年のローマのゲットー地区。

 

いまやシックな趣になりながらも、ユダヤ教のシンボルである六芒星、つまりダビデの星や椰子の木を模ったアクセサリーを売る店や、レストラン、ピッツェリアが軒を並べる、ユダヤの文化が色濃く残るローマのゲットー地区。そのトラステヴェレ沿いにあるシナゴーグとユダヤ美術館を訪ね、ローマのユダヤ人コミュニティの歴史をガイダンスしていただきました。シナゴーグに隣接したユダヤ美術館は、ちいさくとも、我々にはまったく馴染みのないユダヤ文化、古代ローマとの関係を物語る品々、写真が多く展示され、ローマにおけるユダヤ教を大きく俯瞰できる興味深い美術館です。以下、まずはざっとしたローマのユダヤの人々の歴史を、ローマのユダヤコミュニティのサイトをも参考にさせていただき、振り返ってみたいと思います。

古代ローマとユダヤ教

ユダヤ教は、紀元前16世紀、唯一神 D-oを信じるアブラハムが属したセムの部族で生まれた宗教ですから、つまり3600年(!)という歴史を持つ宗教。ユダヤ戦争、エルサレムの陥落を機に、大挙してディアスポラしたユダヤの人々のグループは、大きくアシュケナジー(東欧系ユダヤ人)、セファルディム(スペイン系ユダヤ人)に分けられますが、ローマのユダヤの人々は、いずれのグループにも属さない Ebrei Romani (ローマのユダヤ人)としてのアイデンティティを貫いているのだそうです。 また、聖書のTora(モーセ五書)、 Nevlim(預言書)、Ketuvim(聖人伝)、Mishanà(ユダヤ教のテキストを読み、それを復唱する)、Takmud ( ユダヤ教教授、議論などを著した聖なる書物)を基礎とした、ローマのコミュニティにおける2000年のユダヤ教研究は、ユダヤ文化全体に大きく貢献しています。現在でもシナゴーグに信仰者が10人集まれば、研究、議論を行うことができるシステムとなっているそうです。

なによりローマのユダヤ人コミュニティは、欧州最古のコミュニティで、紀元前2世紀にはすでに古代ローマにおいて共同体を形成したという記録があります。ジュリオ・チェーザレの時代(紀元前100年〜44年)には、比較的優遇され、彼らがパレスティーナ(カナンの地)の同胞たちに金塊を送り援助をしたことをキケロが書き残している。また、カリグラの時代(紀元37年〜41年)、ローマにはすでに8000人のユダヤ人コミュニティがあったとされ、当時ローマで暮らしていたユダヤ人たちは、商人として、地中海沿岸のギリシャ、フェニキアとの通商の架け橋を担っていました。つまりローマにおけるユダヤ人コミュニティは、カトリック教会の成立より、はるかに長い歴史を持つ共同体。現在でもアッピア街道やモンテベルデには古代のユダヤ人コミュニティのカタコンベ(墓地)、地中海の商人たちが集まったオースティアには、シナゴーグの遺跡を見ることができます。

 

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アッピア街道に残る、古代ローマのユダヤ人コミュニティ、カタコンベ(墓地)。

 

前述しましたが、ディアスポラという、ユダヤの人たちにとって大きな歴史の変化の始まりとなったのは、紀元 66年から73年にわたる『ユダヤ戦争』です。当時ローマ帝国の支配下であったパレスティーナの地で起こったユダヤの人々の反乱を、ヘロデ王の孫、アグリッパ2世が率いたローマ帝国軍が鎮圧し、エルサレムは陥落。その後も続いた戦争で敗者となったユダヤの人々は捕らえられ、生き残ることが困難であった荒地「サルデーニャ」など僻地にも送られている。そのときローマに送られた人々は奴隷としてコロッセオの建造に従事させられています。また、ユダヤ戦争で捕虜となった多くのユダヤ人たちは奴隷として売り飛ばされ、中東の奴隷市場はユダヤ人売買でいっぱいになったとも言われている。その後も長くユダヤ人奴隷の売買は続きましたが、そもそもローマの地に移住していたユダヤ人たちが共同でお金を集め、市場で売買されるユダヤ人奴隷たちを買い戻すという動きがあったそうです。

一方、コンスタンティヌス帝の時代まで、ローマに渡ったユダヤ人のうち、キリスト教を信仰していた人々、また、キリスト教に改宗したローマ人信徒たちは、激しく弾圧され、多くの殉教者を出しています。このキリスト者たちの受難に終止符が打たれるのが、紀元313年、コンスタンティヌス帝とリキニウスが締結した『ミラノ勅令』。この勅令によってあらゆる宗教の信仰が認められるようになり、それまでユダヤ教のカルトにしかすぎなかったキリスト教が公認されることとなりました。つまりこの勅令が、その後キリスト教が全欧州に浸透する起因となり、紀元395年、ローマ帝国の国教と認定されたのち、キリスト教はたちまちのうちに政治勢力を拡大させ、ユダヤ教を信仰する人々を敵対視するようになっていきます。

カトリック教会との確執と迫害

ローマにおいて、キリスト教によるユダヤ教信徒への迫害が顕著になりはじめるのは、紀元6世紀頃のこと。その後のユダヤ人コミュニティの歴史は、ユダヤ人を敵と見なし、激しく差別するカトリック教会、時代時代の教皇たちとの確執の中で進んでいくことになります。それでも当時のユダヤ人コミュニティは聖書研究の分野で、カトリックに重要な貢献をしていましたし、「聖書の世界の真実」を伝え、キリスト教の正当性を証言する役割を担う民族でもありましたから、決してローマから追放されることはありませんでした。まだ迫害が緩やかであった中世の初期には、ローマのユダヤコミュニティは自らの伝統に忠実に日常を送り、聖書解釈、また科学の知識の流布に活動し、ラテン世界と、カトリック教会、イスラム圏の架け橋ともなっています。

その状況が大きく変化するのは紀元1000年頃。権勢を増したカトリック教会が、職人、職業協会制度を制定し、その協会に参加するためにはカトリックに信仰をもつことを条件としたため、この制度の発令をきっかけとして、ローマのユダヤ人たちは、あらゆる職種に就くことを禁じられることになります。例外として認められたのが、教会がカトリック信徒に許可しなかった唯一の業種、『金融』の分野のみ。そしてカトリック教会のこの制度が、当時のローマのユダヤ人だけではなく、欧州全土のユダヤ人コミュニティに大きな変革をもたらすことになった。

つまり、欧州各国の経済循環に必要不可欠な金融業に携わることができるのはユダヤ人コミュニティだけだったので、この時期、その存在は迫害を受けながらも欧州のどの地域においても容認されることになりました。また、考えようによっては、教会のこの職人、職業協会制度が、現代の金融世界のシステムにまで影響を及ぼしていると言えるかもしれません。なお、ローマのユダヤ人コミュニティは、利子をとっての金銭の信用貸しのパイオニアとされていますが、ユダヤ人だけが扱うことができる信用貸し、あるいはユダヤの人々のネットワークを利用した為替のシステムを利用することで、当時の教会、貴族、商人達は、大きな恩恵を受け、富を得ていたというわけです。

とはいえ、この時代のユダヤの人々は金融の仕事にだけ奔走していたわけではなく、彼らのアイデンティティである『律法』研究を基礎に、絶え間なくあらゆる分野の学問の研究を続けています。1165年には、 ベニアミーノ・ダ・トゥデーラ(スペインからチュニジアへ移住しユダヤ人地理学者)が、ローマのユダヤ人たちによるユダヤ教研究が大きく発展していること、またその研究がイスラム圏をも含める地中海沿岸の哲学、聖書解釈、天文学、医学、数学の分野に大きく影響していたことを書き残している。また十字軍の時代には、スペインから追放されたユダヤの人々は、欧州から追放されたのち、地中海諸国に渡り、哲学、医学などの分野のアラブ語の通訳として活動、地中海沿岸の文化を携えてローマのコミュニティへと流れてきたという経緯もある。グーテンベルグの印刷技術が渡来した際には『カバラー数秘学』を、初のユダヤ(ヘブライ)語の書籍としてローマで出版しています。

時代を追うにつれ、しかしローマのユダヤコミュニティは、教会に対して過大な税を負わせられるなど、いよいよ困難な状況に置かれはじめることになります。また、人類の歴史とともに経済システムが大きな変換を迎えた1492年(コロンブスアメリカ大陸発見の年)には、キリスト教への改宗か放逐かを迫られ、スペイン領から逃亡したセファルディム、スペイン系ユダヤ人たちがローマに多く合流しています。

 

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テヴェレ川に面した修復以前のローマのゲットー地区。neapolisroma.itより

 

ユダヤ人地域『ゲットー』

ユダヤの人々のカトリック教会による極端な迫害が決定的になるのは1555年、教皇パオロ4世の時代です。今までは迫害されながらも、ローマの各地、特にトラステヴェレ、そしてアヴェンティーノ地区辺りに集まり、普通の市民と同じように暮らしていたユダヤの人々約3000人は、『ゲットー』、つまり「ユダヤ人の檻」と呼ばれる地域に、教皇の制定した法律により強制的に閉じ込められ、不自由な、まさに『檻』の中での生活を強いられるようになった。なにより当時のゲットーは、テヴェレ川の水位より低地にあり、湿気が多く、衛生環境が著しく悪い地域で、テヴェレ川が氾濫するたびに建物の3階にまで泥水が上がり、沼のようになる地域だったそうです。ユダヤの人々が「(神の)律法の下に全ての人々は平等」という強い信仰を持っていなければ、このような過酷な状況には耐えられなかったかもしれません。

その、マルチェッロ劇場裏からテヴェレ川の間の狭く、高い塀に閉ざされたゲットー地区のシステムは、夜明けとともに門か開かれ、陽が暮れると門が閉じられるという門限があり、ユダヤの人々は、その門限に合わせてローマの街での用事を済まさなければなりませんでした。また、ゲットーから外に出ても一目でユダヤ人とわかるように、男性はベレー帽、女性は深緑色の服の着用が義務付けられ、ゲットー内では、古着商、金融業以外の商売は禁止されています。さらにユダヤ人たちをカトリックへの改宗に導くために行われる、ゲットー地区近隣の教会でのミサに一定期間の参加をも義務づけられている。しかしそれでもユダヤの人々は強く改宗を拒み、そのため教会は、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々を使って、ゲットーの人々に何度も説得を試みさせています。

時が経つに連れ、ドイツやスペインから追放された同胞たちがローマのゲットーへ流れ込み、人口は4000人へと増加。その人口増加のせいで、ゲットーの居住環境はいよいよ劣悪となりました。そこでシスト5世教皇の時代には「キリスト教の隣人愛(?)」として3ヘクタールの増設が認められていますが、それでも人口に対して、極めて狭い地区には変わりなく、ゲットーの建物は上へ上へと増設され、7階、8階と高層化し、ローマ初の摩天楼が並ぶ地区となりました。また、ローマにはシナゴーグはひとつと定められ、当時存在したユダヤ教の5つの教派は、ゲットーの内部のシナゴーグにまとめられた。この時代、ユダヤの人々は常に社会のスケープゴートとされ、ユダヤ人の老人を闘わせて見世物としたり、裸で競争させられるなど屈辱的な仕打ちを受け続けたという経緯もあったそうです。清教徒の「魔女狩り」同様、カトリック教会は当時の市民の社会不満のはけ口として、ユダヤの人々の存在を、かなり利用していたと考えられます。

200年以上も檻の中に閉じ込められるという、カトリック教会によるユダヤの人々への迫害が一息ついたのは、フランス革命とそれに続いてナポレオンがローマに侵攻した時代です。1798年、時の教皇ピオ6世がローマから逃亡したのち、第一次ローマ共和国が宣言され、ユダヤの人々にも全ての市民と同じ平等の権利が認められることとなった。しかしその自由も束の間、ローマに帰還した教皇ピオ7世は、以前にも増してユダヤの人々を迫害し、自由を得てゲットーの外で商売を始めた人々には、その自由を剥奪しない代償として、破格の税金を要求。ナポレオンのローマ侵攻とともに開かれたはずのゲットーは再び閉ざされ、ようやく「檻」の外に出て、職を得たり、商売を始めたにも関わらず、税金が払えない人々はゲットーへと連れ戻され、学校からも、病院からも追放されています。

さらに1823年に選ばれた教皇レオーネ7世の時代に迫害は頂点を極め、レオーネ8世の時代には、ローマにはユダヤの人々のアイデンティティであるユダヤ教の中核を担う「ラビ」(ユダヤ教指導者)が存在しないという状態まで追い込まれている。ゲットー、『檻』からの真の解放は、1870年、ガリバルディがローマ教皇位の廃止を決め、教皇の政治権力が終焉するのを待たなければなりませんでした。ここでようやく、長かったローマのユダヤ人ゲットー幽閉に終止符が打たれ、自由が認められると同時に、ローマのユダヤコミュニティの人々はトラステヴェレ川沿いの土地を購入、現在その地にあるシナゴーグを1904年に建造しています。

 

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1938年、11月11日、ファシスト政権下で発令された、ユダヤ人の市民権を剥奪する『人種法』を発表するコリエレ・デッラ・セーラ紙。この時からユダヤの人々は公共機関、学校、病院、また企業では働くことができなくなった。

 

ファシズム下、ユダヤの人々の悲劇

キリスト教の政治権力の衰退とともに、ユダヤの人々への迫害がここで終わったならば、歴史はこれほどユダヤの人々に注目しなかったかもしれません。しかしユダヤの最も痛ましい悲劇は、一旦はゲットーから解放され、市民権を得たにも関わらず、それから一世代を待たないうちに起こることになりました。1922年、ムッソリーニ政権が樹立してからまもなく、ファシスト政権はユダヤコミュニティを敵とみなし、多くの新聞が『アンチセミニズム(反ユダヤ)』を煽りはじめた。

実際、今も昔も、共同体と対立する仮想敵を仕立て上げることは、人々の日常の不満をはけ口へと誘導する最も効果的な方法です。自らの不幸、フラストレーションを敵意、憎悪にすり替える過程は一種のカタルシスであり、悪である敵の共同体から自らが属する善なる共同体を守るという、生き残りを賭けた闘争本能を刺激されればされるほど大衆は団結する。まさにFacio(束)を社会に構築するためには、それが幻であろうとも、敵の存在が必要不可欠なのです。今頃になって、ムッソリーニはアンチセミニストではなく、ユダヤの人々にそもそも敵対してはいなかった、などという説も出てきていますが、イタリアのユダヤの人々が、アウシュビッツに送られたという歴然とした記録が残っている以上、敵意があろうとなかろうと、ムッソリーニがホロコーストに加担したことは、紛れもない歴史の事実でしょう。

そのムッソリーニのファシスト政権下、そもそも長い迫害に耐えてきたユダヤの人々は、ファシスト政権による反ユダヤの声が高まるなかでも、ユダヤの伝統的な生活を忠実に守り、政権による強い圧迫にも動ぜず、ラビたちも毅然とした態度で臨んでいます。しかし、自らを『イスラムの守護者』と名乗るムッソリーニは、いよいよ攻撃的な外交を行使、アラブ諸国、パレスティーナに武器を送り、当時英国に保護されていたユダヤの人々、シオニズムの聖地を脅かしはじめる。さらにムッソリーニとヒトラーの連帯が強まるほど、緊張は高まり、ムッソリーニはユダヤ人排斥を強く打ち出しています。

1938年、11月11日、ムッソリーニ政権による『人種法』(ユダヤの人々の公共機関からの追放、ユダヤ人との結婚の禁止など、実質的にユダヤの人々を完全に社会から排斥する法律)の制定が発表された当初は、その先に言語を絶する悲劇が待っているとは考えも及ばず、ローマのユダヤの人々は比較的穏やかに日々を過ごしていたそうです。また、『人種法』が制定され、状況が悪化した1938年から1945年までの間、移民が可能だった人々は、アメリカ、そしてパレスティーナへと移住、移民することができず、ローマに残ったユダヤの人々は、ヒトラーの迫害から逃亡してきた、数多くのユダヤ人たちを助け、匿っています。

 

 

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ローマのユダヤ・コミュニティの歴史において、決して忘れられない出来事が起きたのは、1943年10月16日の夜明けのことでした。その日ローマになだれ込んできた何百人ものドイツ兵が、突然ユダヤコミュニティ地区を包囲、1022人(200人の子供も含み)のユダヤ人は、貴金属や手持ちの金銭を奪われたのち、有無も言わせず連れ去られ、アウシュビッツに連行された。そのうち生き延びることができたのはたったの17名だけだったそうです。

590万人以上とも言われる、ナチスによるホロコーストの犠牲になったユダヤの人々の正確な数については、現在でも議論が続いていますが、もちろん、ユダヤの人々だけではなく、ソ連兵捕虜300万人、ポーランド人200万人、ロム、シンティ(ジプシーの人々)55万人、身体障害者の人々25万人、フリーメーソン8万〜20万人、同性愛者5000〜15000人、『エホバの証人』信仰者2500〜5000人、思想犯100〜150万人、スラブの人々250万人という、途方もない数の人々が犠牲になっている。それもたったの70年前、つい最近の出来事です。そして、このホロコーストをなぞるようなジェノサイド、民族浄化は、民族を変え、国を変え、宗教を変え、その後も終わることなく、現在も世界各地で繰り広げられています。

ドイツ兵に連行されたイタリア全土のユダヤの人々は、イタリアの各地にある強制収容所を通過点に数日過ごしたあと、ミラノへ送られ、ミラノ中央駅の地下にある21番ホームから、秘密裏にアウシュビッツへと運ばれた。そもそも郵便、荷物の集配など配送のために作られた、人間の輸送を禁止していたそのホームは、どんなに大声を出して助けを求めようとも、外には全く聞こえない厚い壁に覆われた厳重な構造となっていました。

 

※巨匠エットレ・スコーラによる1943年ー97年をテーマにした短編。まさに現代を見通すスコーラの慧眼には驚く。

 

難民の人々に解放されたミラノ中央駅21番ホーム

さて、ここからユダヤの人々の現代の動きを追うことにします。ミラノを出発してアウシュビッツへ向かったまま、二度と帰ってことなかった片道の汽車。イタリアのユダヤの人々には、決して忘れることのできないその記憶を今日に伝える、ミラノ中央駅21番ホームは現在、当時、人々をアウシュビッツに運んだ木製の汽車をそのまま展示するホロコースト記念館となっています。ホームの内部はモダンに改装されてはいますが、絶望の記憶は風化することなく、沈黙しながらミラノ中央駅の地下に横たわっている。そして、なにより特筆すべきことは、そのホロコースト記念館が2015年から現在まで、欧州にとって最も重大な課題である、中東、アフリカからの難民の人々のために解放されているということです。21番ホームの一角が、混乱を極めるシリアの戦禍、あるいはエリトリアの圧政から命を賭けて欧州へ逃れてくる難民の人々のために、生活に欠かせないシャワーや洗面所も完備した、まさに臨時の「難民センター」となっています。1月27日付のコリエレ・デッラ・セーラ紙が、 Web上で短い映像とともに、そのセンターの様子をレポートしています。

ユダヤの人々にとって、重要な意味を持つその21番ホームを、現在、海を渡って欧州にやってくる難民の人々に、どうしても解放したいと切望したのは、「ミラノ・ホロコースト・メモリアル協会」の副会長であるロベルト・ジャラック氏なのだそうです。さらにその、21番ホーム難民センタープロジェクトには、サン・エジリオ・コミュニティが共同参加している。サン・エジリオは、ローマで発足した、僧職ではないカトリック信者による、世界平和に貢献するワールドワイドなボランティア活動ですが、最近もシリアのアレッポから、行き場なく、途方にくれていた多くの難民の人々を飛行機でローマに輸送することに成功しています。 こうしてユダヤの人々とカトリックの信徒たちが、協力してオーガナイズするミラノ中央駅21番ホーム難民センターは、現在までに26カ国から訪れた7500人の難民の人々を受け入れています。また、ここではイスラム教徒である人々もボランティアとして力を合わせて働いている。

このミラノ中央駅にある難民受け入れセンターの実現のために多くのミラノ市民が援助を惜しみませんでした。また、たくさんの若い世代の人々がこのプロジェクトに関わっており、いくつかの学校も参加して、地中海を渡ってきた難民の人々と学生たちの対話も実施している。 WEB上の短い映像の中で感銘を受けたのは、26歳のハッサンという名のパキスタン人のボランティアの言葉です。祖母に勇気づけられ、タリバンの支配から逃亡してきた彼は、自分と同じ境遇である難民の人々が英語もイタリア語も話せないため、彼らのコミュニケーションを手伝うというボランティアをしています。「僕にとっては非常に有益な経験だったと思う。この場所では皆が一緒に生活し、互いに助け合うんだ。神は Unicoー唯一なんだから」

 

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現在のミラノ中央駅地下の21番ホームの壁にはINDIFFERENZA ー無関心、という文字がくっきりと刻まれいている。

 

ローマ:昨日の船、そして今日の船

ところで、ミラノ中央駅の地下、21番ホームの壁に刻まれた「 Indifferenzaー無関心」という言葉は、1月27日のローマで開かれたイベントでも、盛んに聞かれました。ホロコーストのメモリアルデーにわたしがローマで参加したのは、1900年以降の歴史を振り返り、批判も含めて熟考する、というコンセプトで活動が行われる、ローマ市運営の図書館 Casa della memoria e della storia(記憶と歴史の家)で開かれたメモリアル・イベント。1944年、「 Pentcho」と名付けられた、設備の整わない粗末な船で、パレスティーナを目指して欧州から逃亡する途中、ギリシャで難破した540人のユダヤの人々の物語と、現在、船に乗って欧州へ渡ってくる難民の人々の状況をシンボリックに重ね合わせ、実際に、現在地中海沿岸で難民の人々の救助にあたる、イタリア海兵隊の沿岸警備の大佐を招き、繰り返される歴史の悲劇を討論するというものでした。このイベントは世界中の人々の平等を目指してプログレッシブな活動を行なう Beth Hellelというユダヤ人コミュニティにより開催されたものです。

 

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1944年、パレスティーナへ向けて540人のユダヤの人々が乗船した Pentcho 。 Il sole 24 oreより引用。

 

実を言えばそのイベントに出かける前、多少の「暗鬱」な空気を覚悟していました。しかし実際に行ってみると、参加者は皆イキイキと活発に討論しあい、沿岸警備隊の大佐への矢継ぎ早の質問に会場は熱気に包まれていた。なにより参加者たちの(意外なことに、10代と思われる若い世代も多く)難民の人々への強い想いに驚きました。沿岸警備隊の大佐は、「船に乗って来る難民の人々を助けるためにレスキュー隊は厳しい訓練を受けているが、それでもどうしても助けられないケースもあり、その時の無念は言葉にしようがない」と唇を噛み締め、また、救助に当たるレスキュー隊そのものが難破に巻き込まれるリスクの大きさをも詳細に説明、難民の人々の救助の現場を知る貴重な経験となりました。

また、このイベントで、シリアから来る船長のいない『幽霊船』の存在についても初めて知りました。というのも、法外な料金を難民の人々に要求して、違法に地中海を渡ろうとする船の船長は、確実に沿岸警備隊に逮捕されるため、難民を乗せ、シリアを出発する時点でイタリアへと向かうように自動制御された船が多く来るようになったのだそうです。大佐は、沿岸警備隊の仕事は、もちろん地中海上の安全を保証する、という役割に則っての警備だが、難民の人々を助けるのは、人間として当然の義務だと考えている、ともおっしゃっていた。

そしてそのイベントで、なにより印象に残ったのが、「歴史は、ホロコーストという事実を突きつけているのに、難民を排斥する動きが、世界の各地で起こっているのを見て、絶望的な気持ちになる。人間というものは変わらないのだろうか」という参加者の意見に、主催者のパネラーが語った言葉でした。

「わたしたち家族は44年にスイスに亡命した家族です。当時わたしは9歳で、家族全員で冬山を渡り、スイスの国境まで歩いていった。国境の兵士たちが『何人だ』と聞くので、父が『ユダヤ人だ』と答えると、『ユダヤ人をスイスに入れるわけにはいかない。後に戻れ』と突き放されました。その時、父は、このまま家族全員で死のうとまで考えたそうです。ところが一旦は入国を拒絶した兵士たちは、震えて立っているわたしたち子供をしばらく見つめると、目を伏せて、『いいから急いで通りなさい』と一言だけいうと、兵舎へと立ち去って行きました。わたしたちは本当に運が良かった。他の多くのユダヤ人家族は、国境で拒絶され、連行され、命を落としたのだから・・・。『ユダヤ人』というだけで差別されるなんて、そんな理不尽はもう2度と起こってはいけない、とわたしは強く思います。それなのに世界はまた同じことを繰り返そうとしているように思える。そう、人間は変わらない。変わりません。今の状況を鑑みると、そうとしか言えない」

欧州にいて、世界が大きく動くのを感じています。ホロコーストを経験した家族を出自に持つ、娘婿である有能なユダヤ人実業家を大統領上級顧問に据えながら、まさにホロコーストのメモリアル・デーに発令された米国大統領の『イスラム圏7カ国の市民、難民の入国禁止制限』は、耳を疑う暴力的な出来事でした。ワシントン州連邦地裁の大統領差し止めの判断が、このまま混乱なく効力を持続させることを願いますが、まさか米国の大統領が、こんな大統領令を発令する日が来ようとは、ゆめゆめ想像していなかった。

一方欧州では2月4日、イタリアーリビア政府合意のもと、欧州ーリビアの首脳陣がリビアから難民の人々を乗せた違法な船を出発させないという協定をマルタで結んだというニュースが報道されています。発表された同日には、シチリアに1600人の難民の人々が上陸。その中には家族を伴わない18歳未満の子供たちもいて、その数は次第に多くなっているそうです。そのマルタで署名された協定に「残酷で偽善的。ヨーロッパの首脳はリビアで現在繰り広げられている、きわめて非人間的な状況を理解しようとしない。いかに人命を助けるか、ということを真剣に議論していない」と、国境なき医師団をはじめとする多くの人権団体からの大きな反発もある。実際、テレビニュースのインタビューでは、シチリアにたどりつく難民の人々が、連行されたリビアの刑務所で過酷な暴力を受けてきたという証言をし、身体中に残る傷跡を見せる様子が報道されます。この合意は、政府が複数存在する現在のリビアの政情を省みるなら、書類上の約束だけに終わる可能性もありますが、それでも静かに欧州が国境を閉じようと動きはじめた気配が漂います。

難民の人々は、戦禍を、圧政を逃れ、命を賭けて砂漠を渡り、銃で脅され、幾つもの危険を犯して地中海沿岸に辿りつく。そしてその最後の難関、地中海で命を落とすこともある。

確かにこの状況下において最も冷酷な対応は、世界の現実を見ようとしない『無関心』かもしれません。いずれにしても、恐れと怒りという感情、テロ、スピード、インパクトが、簡単に大衆を煽動するツールとなることは覚えておきたいと思っているところです。

 

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