海は燃えている: Fuocoammare

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Sacro GRA 『ローマ環状線、めぐりゆく人生』で、2013年のヴェネチア映画祭、金獅子賞を獲得したジャンフランコ・ロージ監督が、2016年2月、『Fuocoammare : Fire at sea (海は燃えている)』でベルリン映画祭の金熊賞をも獲得。アフリカ、中東からの難民の人々の欧州への架け橋のひとつとなっている地中海の孤島、ランペドゥーサの『現実』を追ったこのドキュメンタリーは、並外れて胸に響く作品と絶賛され、ローマでも多くの感嘆の声が上がっています。

Fuocoammare:Fire at sea(海は燃えている)について「どうしても語りたい」と思った瞬間、このサイトではローマの出来事、人々について中心に書いているので、ランペドゥーサを巡るドキュメンタリーについて語ることは、「ファウルかも」とも、ふと考えました。しかし、撮影であちらこちらを旅することは多くとも、ジャンフランコ・ロージ監督の拠点はやはりローマ。ランペドゥーサ島の撮影を終えたあと、現在はローマに居を移したと報道もされていますから、ローマを拠点とする映画監督には違いありません。

それに今回のドキュメンタリーは、ローマを含む欧州にとっては緊急を要する『歴史的なエクソダス』という重大テーマを扱っているため、自分なりに状況の把握もしておきたかった。ただ、ネットでサーチする限り、日本ではまだ公開が決まっていないようなので(追記:邦題は『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島~』に決定。2017年公開予定だそうです)、細かいストーリーにはなるべく触れず、その背景、そして監督とキーパンソンの受賞後の談話を中心にまとめてみたいと思います。

『難民』という現実

終わることのない戦禍、圧政、テロ、極端な貧困から逃れ生きるため、陸から、海から欧州大陸へ、と訪れる中東、そしてアフリカからの難民の人々のエクソダスが、ほぼ毎日、欧州のマスメディアで語られる重大な問題となっていることは紛れもない現実。そしてこの現状は、もはや欧州のみならず、世界が緊急に乗り出すべき問題だ、とわたしは認識しています。住む土地を追われ、砂漠を歩き、海を渡り、陸を渡り、今となっては帰る場所がない膨大な数にのぼる人々が国境を閉じられ、行き先が決められないままどこにも進むことが叶わず、サポートが行き届かない過酷なテント生活を余儀なくされる状況は、甚だしく不条理です。

Sacro GRA という、永遠に循環する、いわば『建築(インフラ)を巡る宇宙』で、人間の『生』を見つめたドキュメンタリーを撮り、ヴェネチア映画祭の最高賞を受賞したジャンフランコ・ロージ監督にとって、この現在進行中の歴史的エクソダス、『死』と対峙する重大なテーマをドキュメンタリーで扱うということは、彼のキャリアにおいて、大変なリスクがあったことと察します。 実際、監督自身も「これほど厳しい試練になるとは思わなかった」とも言っている。

そもそものこのドキュメンタリーフィルム、Fuocoammare(以下、イタリア語タイトル「フオコアッマーレ」に統一します)の誕生のきっかけは、2013年10月3日に起こり、イタリアじゅうを震撼させた海難事故でした。この日リビアから主にエリトレア人難民を乗せた船が、ランペドゥーサの港からさほど離れていない沖で出火して沈没。死者366名、行方不明者20人と、もはや『戦争』ともいえる犠牲者を出し、今世紀最悪の地中海における悲劇となった。また、この大事故には未解決の謎が多く、チュニジア人の船長、および乗組員の故意の放火という疑いもあり、のち、船長は殺人罪で起訴されています。

この大事故のあと、Istitute Luce ( L’Unione Cinematografica Educativaーもともとはファシストのプロパガンダフィルムを作る組織だったが、戦後はドキュメンタリーをプロデュースする組織に変革。マルコ・ベロッキオ、マリオ・モニチェッリ、エットレ・スコーラなどがイタリア映画の巨匠がディレクターを務めた時期もある)が、ロージ監督にランペドゥーサを舞台にした『短編』を依頼したことが、このドキュメンタリーのはじまりでした。10月3日の大惨事が、イタリアじゅうに大きな衝撃を走らせた経緯はいまだ記憶に新しいのですが、これほど大きな海難事故だったにも関わらず、イタリア以外の欧州の国々、インターナショナルには、ほとんど語られることはなかった。

 

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ベルリン映画祭、金熊賞受賞で。中央ロージ監督のうしろには、共に受賞した今回助監督を務めたランペドゥーサの島民ペッピーノ(左端)、ドキュメンタリーのキーパーソンとなったピエトロ・バルトロ医師(右端)

 

「ジャーナリズムが行き着いた地点から、この映画ははじまった」

Fuocoammareが、ベルリン映画祭で金熊賞に決まった夜、そのニュースは、イタリア国内のみならず、 ニューヨーク・タイムス、ガーディアン紙をはじめ、各種国際メディアに絶賛され、世界を駆け巡りました。「難民船を巡る状況を、センセーショナルに報じるだけのメディアのエコーからできるだけ遠い場所から、『真実』を撮りたいと思った。僕はこのドキュメンタリーで政治的調査をしたかったわけではないんだ。もちろん、僕の意図から離れて、このドキュメンタリーが、政治の次元で何らかの役割を負うことになったことは明らかではあるけれどね。テーマがあまりにも重大だから、ベルリン映画祭で受賞すれば、Fuocoammare は自動的に政治的な映画、ということになる。しかし映画を観てもらえば、それが政治的な意図から生まれたのではないことが分かってもらえるはずだよ」受賞後、ロージはそう語っています。

確かにロージの島を巡る視線は、透徹しながらあくまで人間的、時に困惑し、時に微笑ましく、時に慈愛に満ちながら、ランペドゥーサというひとつのコスモスを描いている。そしてその島に起こる過酷な『現実』を目の当たりにして「なんということだ。こんな酷いことが、今地中海で起こっているんだ。これが『現実』だ」と訴える監督自身の深い苦悩と嘆き、そして証言者としての決心が、われわれ観客に繊細に、しかしダイレクトに迫ってくる。

しかしながら、わたしは他のシチリアの島へは何度か足を運んでいても、ランペドゥーサという島のことを実際には知りません。そこで映画の話の前に、まず、映画の舞台となった、このランペドゥーサ島について、沿革を少し調べてみることにしました。

シチリアのアグリジェントに属する、このランペドゥーサ島は、シチリア沿岸から205km、チュニジア沿岸から113kmと、欧州よりむしろアフリカに近い20,2 平方メートルのちいさい島。古代は海洋民族であるフェニキア人(現在のシリアの一角から、パレスティナ、レバノンにまたがり、地中海沿岸に古代オリエント文明をもたらしたとされる人々)、そして古代ギリシャ人、古代ローマ人たちが通りすぎた、太古の海の記憶を持つ島でもあります。

1630年には、ルキーノ・ヴィスコンティの『山猫』の原作者、ジョゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサの祖先にあたるジュリオ・トマージ・プリンチペ・ディ・ランペドゥーサが、スペイン王からPrincipe (皇太子)の称号を授かり、島を統治しはじめる(ちなみに作家のトマージ・ディ・ランペドゥーサ自身は、パレルモで生まれ、島の出身ではありません)。その後、イギリス、マルタに占領された時期もありましたが、1840年代からはシチリアの統治下となり、シチリアからの入植者が多く入り、現在も島に残る多くの大建造物が造られることになった。ちょうど世界が産業革命に沸き立つ時代、ランペドゥーサという、ごくちいさい島も例にもれず、木炭を生産するために、島の森の樹々、植物がこの時期にほとんど伐採されています。そのため緑がなくなった荒漠とした島での農業の道は完全に絶たれ、この時代に島民たちはみな、漁業へと移行している。その伐採の痕跡、生態系への影響は、現在まで島に残っています。

のち、ランペドゥーサが統一後のイタリア王国に併合されるのは1861年のことです。と同時にイタリア政府は、島民の反対を押し切って島を『流刑地』と定め、その『流刑地』としての島の役割は1940年まで、約80年間続いています。さらに第二次世界大戦時には、沖をいくつもの敵艦が群れる海戦の舞台ともなった。Fuocoammareというドキュメンタリーのタイトルは、1943年の大戦時、軍艦の爆撃があった夜、「Chi fuco a mmari ca c’è staseraー Che fuoco a mare che c’è stasera! 今夜は海に火が見える!」  と島民たちが繰り返し語った、というエピソードから取られています。

戦後はNATOが基地を作り米軍が駐在していましたが、現在ではイタリア軍がその基地を引き継ぎ運営。漁業が中心の素朴でのんびりとした島でも、アフリカに最も近い地中海の地政学的要所であるため、さまざまな国が繰り広げる複雑な出来事に巻き込まれた歴史がある。また、1986年、リビアのガダフィ大佐に、突然ミサイルを撃ち込まれるという、とてつもない出来事に見舞われたことは有名です。

 

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島の南東部に広がる、透明度が極めて高い海。この写真が何年か前にSNSで驚異の声と共に拡散した。

 

ところでランペドゥーサもまた、その他のシチリアの島々と同じくヴァカンスシーズンには多くのトゥーリストが訪れ、賑やかになる、いわば夏のトゥーリズムが島民の経済循環を支える島。そういえば数年前に、SNSで船が空中に浮かんで見えるほど透明な海の写真が出回っていましたが、それがランペドゥーサ島の南東部の入江の海の風景です。しかしトゥーリストが訪れるのは1年に 2、3か月のことですから、その他の季節、約6000人の島民は漁をして生計を立てつつましく暮らす、静かに時が流れる島には違いありません。

そしてこのちいさい、空気のように透き通った海に面した素朴な島が、25年もの間、アフリカ、中東から訪れる難民の人々と欧州を結ぶ架け橋のひとつとなっている。アフリカからの難民船がはじめてこの島に到着したのは1992年のこと。またその難民船が、島の沖で遭難して、人々が犠牲となった海難事故は1996年にはじめて記録されています。それから現在まで約40万人の難民の人々がランペドゥーサに辿りつき、難破、遭難によって15000人もの人々(さらに多いという記録もあります)が海の犠牲となっています。2013年7月、コンクラーベで選ばれたフランチェスコ教皇が、就任後すぐ、まず最初に訪問したのが、ランペドゥーサにある難民救援センターでした。

現在、ランペドゥーサに渡ってくる人々には、戦禍から逃れてくる人はもちろん、経済的な困窮を強いられ、やむなくやってくる人々も多くいて、大きくmigrantiと呼ばれます。そのなかにはよりよい暮らしを求めて渡ってくる『経済移民』と見なされる人々もいて(フランスなどはそう主張しています)、rifugiati『戦争など危険な地域からの難民』、profughi『亡命者』とは区別される場合もありますが、現実的には経済システムの歪みで困窮し、生活が立ち行かなくなった『難民』の人々である、とわたしは捉えたいと思います。時間を追うごとにひどくなるアフリカ大陸内の圧政、経済格差もまた、一種の戦争のごとく生死を争う事態にまで進んでいるからです。したがってこの項では『移民』という言葉を使わず、『難民』に統一することにします。

『時間』が捉えた珠玉の瞬間。愛情と情熱と憐憫と。

さて、前述したように、当初『短編』を撮る予定でランペドゥーサ島を訪れたロージ監督は、その状況が、とても短編では表現しきれない複雑な状況であることを悟り、時を置かずして島に居を移し、撮影に取り組むことにしています。結局1年という長い時間、正確には2014年の12月から2015年の 1月まで、島の人々と少しづつ友達になり、交流し、島の空気を吸いながら、やがてランペドゥーサと一体になっていった。

「はじめここに来た時は、難民救援センターは修復されている途中で、何ヶ月かの間は難民船もやってこなかったんだ(冬の間は海の悪天候が続くこともあり)。島は空っぽで、難民の人々の存在は、その気配だけでしか感じられず、目に見える実際のランペドゥーサのさらに向こうにある『何か』、として漂うだけだった。はじめはただ何かが起こることを待つだけの毎日だったんだが、この待つ『時間』というのが基本なんだよ」

「待つということから、今まで誰も見たことのないこの島の、つまり『難民を受け入れる』島だけではない、島そのもののアイデンティティ、それも島の人々の日常を通して撮ろう、という考えが生まれたんだからね。はじめ僕は彼らにとってはまったく不可視の存在で、誰も僕の撮影を気にもとめなかったけれど、ペッピーノという島の友人が助監督をしてくれたおかげで、少しづつ僕の目に島が映るようになった。ドキュメンタリーの登場人物となる人々と出会うことからはじめたんだが、ピエトロ・バルトロ医師が、その最初の人物だったんだ」(インテルナチョナーレ誌:抄訳)

後述しますが、この島の診療所に35年勤務し、到着したばかりの難民の人々すべての健康状態を診てきたピエトロ・バルトロ医師は、ロージにこのドキュメンタリーの撮影を決心させた人物でもあります。

「この25年もの間、ランペドゥーサの人々は、この島に流れてくる難民の人々を、大声を出すことなく、ただ静かに受け入れ続けてきた。僕はこの島に1年間滞在したが、島の人々からは一度も、恨みつらみ、難民の人々への恐怖、を聞いたことはなかったよ。たった一度だけ、彼らが怒った出来事に出くわしたことがあるのだが、それは『ランペドゥーサは難民で大混乱している』『島で獲れる魚は難民の遺体を食べているから食べてはいけない』『テロリストがやってくる島』というマスメディアのネガティブな報道が国内を駆け巡ったときだった。これらの報道は、島のことをまったく知らない者たちの言う、現実を否定する者たちの言葉だ。彼らの日々の難民救援活動を助けるために、メディアの言うことには誰も耳を貸さないことを願うよ。島には移民の救援センターで働いている人々が大勢いるんだ」

「現在では難民船を受け入れ、救援センターまで運んだあと、それぞれの難民の人々の身元を確認するという流れがシステム化されている。しかしほんの数年前までは、難民船が到着すると、島の人々が砂浜で難民の人々を下船させ救護し、元気を回復させるために宿を提供していた。船が難破しそうになると、島の漁師たちが海に飛び込んで、自ら泳いで彼らを助けていたんだよ。ドキュメンタリーの登場人物のひとりである島の医者であるピエトロ・バルトロ医師から聞いた話なんだが、たとえ映画には編集しなかったとしても、僕の心に強く突き刺さっている話があるんだ」

「ある難民船を迎えたとき、下船した人々のなかに妊娠している女性がいた。今にも子供が生まれそうな緊急な状態だというのに、船があまりにすし詰めで、他の人々に強く圧迫され生むことができなかったらしい。バルトロ医師は、かなり危険な状態にあるその女性を診療所に急いで連れていき、ちいさな手術室でやっとのことで子供を誕生させることができたそうだ。彼はそんな状態の女性を診療所に運び込んだことを誰にも告げず、ひとりで決断し、動いたにも関わらず、手術を終えて診療所を出て驚愕した。診療所の玄関口では、夜の闇、どこで聞きつけたか50人ほどの島民たちが、それぞれにオシメや子供の洋服を手にして、医師が出てくるのを待っていたんだ。その子は そのエピソードからGiftー贈りものと名付けられ、現在は母親とともにパレルモで暮らしているそうだ。これがランペドゥーサだけでなく、シチリアの人々のスピリットなんだ」

「最近はいよいよ多くの難民の人々がイタリアにやってきているが、パレルモでもカターニャでも、バリアを張って難民を阻止しようとしている、なんていう話は聞いたことがないじゃないか。非常に恥ずかしいことに、欧州のいくつかの国は精神的にもこのバリアを高く掲げはじめているけれどね。これは欧州にとって、全く不名誉なことだ。僕がランペドゥーサの島の人々から学んだのは、受け入れる、ということだよ。僕のガイドともなってくれた医師、バルトロがこの島民の寛容の理由を説明してくれたんだけれど、『ランペドゥーサの人々は、そもそもみな漁師だからね。彼らは海からやってくるものは、すべてを受け入れるんだ』彼はそう言った。僕らも彼らが持つ、その漁師の魂を吸い込まなければならないと思っているよ。僕は今回の金熊賞を、ランペドゥーサとその島民に捧げたい。これからトロフィーは、まず島へと向かうんだ。彼らは、もはや僕の家族でもあるのだから」(ラ・レプッブリカ紙)

 

*Fuocoammareのオフィシャルトレーラー

 

シーンひとつひとつにちりばめられた暗示

ドキュメンタリーは、サムエーレという、子供と思春期の間を揺れ動く、12歳の少年の1年間の成長を軸に、その家族、島のラジオのDJピッポなど島民の日常と、『難民船』の現実とが出会うことなく並行に語られていきます。その並行線のいずれにも関わる、島の診療所の医師であるピエトロ・バルトロ医師が象徴的に存在する。そしてこの三つの方向が、ドキュメンタリーの原点です。

何よりサムエーレというストーリーを引っ張る、おしゃべりで腕白、それでいて繊細な感受性を持つ、まさに天才というべき存在感を放つ少年と、彼を取り巻く家族の生活に、島の時間と空気が集約されている。ロージ監督はサムエーレに会って5分のうちに、この少年は欠かせない、と直感したそうですが、媚びも作為もまったくないこの少年の表情に、島の魂が映し出されます。

また、漁師という何ヶ月も海で過ごさなければならない退屈な人生、何ひとつ楽しかったことはない、と愁に魅入られた視線で語るサムエーレの叔父である漁師が、舵をとる際の威厳には圧倒もされる。淡々と料理をする祖母、ウニ漁のため海に潜る祖父、島のラジオ曲のDJ ピッポ。島の暮らしにはセンセーショナルで刺激的な空気は少しもなく、現代を物語るハイパーな要素も何ひとつ見当たりません。ただ、ゆるやかで朴訥とした、しかし幾分メランコリックでもある空気が流れるだけです。

「実際、サムエーレは非常に強力なメタファーになったと思うよ。たくましさと同時に感受性が鋭く、脆い人生の一面を見せてくれる。さらに彼は、しあわせな未来を約束されていない、あるいは海の中に沈んでしまう、すべての難民の子供たちのメタファーとなっているかもしれない。サムエーレの大人になる少し前のもやもやした心配、せつない思いは、現実を前にした僕らのもやもやした心配であり、せつない思いでもあるじゃないか」(インテルナチョナーレ誌)ロージはサムエーレについて、そうコメントしています。

また、このドキュメンタリーで強く印象に残ったのは、余分な音楽、効果音が使われていないことです。島のDJピッポがリクエストに応えてラジオで流すテーマソング『Fuocoammare』と島民のリクエストによる古い楽曲、そして難民救援センターでナイジェリアの人々が絞り出すように身体で歌うゴスペル/ラップ以外、映像に流れた音楽を思い出せない。波の音、船のエンジン音、あるいは風の音、小鳥の鳴く声、桟橋が軋む音をバックに繰り広げられる島の暮らし、やがて決定的な絶望を語る地中海のシーンへと並列に並んでいる。その、ひとコマひとコマのシーンが多くの暗示を含み、ある意味アフリカ的な美意識と言ってもいい、ロージ独特の光を抑えた、予想外のアングルで切り取られた映像で、強烈なインパクトを残しながらドキュメンタリーは進んでいきます。

 

*Fuocoammare のクリップから。

 

そういえばSacroGRAを観た際、ロージの視線で切り取られた映像はどこかアフリカ的だ、と感じましたが、彼自身が実際、アフリカのエリトレア出身であるということを、 Fuocoammareを観たあとに知りました。彼が生まれたエリトレアはアフリカの角と呼ばれる地域の、紅海に面した国。第二次世界大戦前はイタリアの植民地でもあり、ムッソリーニがそこにPiccola Roma(第二のローマ)を建造しようと計画し、首都アスマラの当時の人口の60%は、イタリア人入植者だったそうです。

ロージが生まれたのは大戦後、イギリスに占領されたエリトレアの独立戦争の最中にあたります。のちニューヨークで学び、インドをはじめ世界各地を旅して実験的なドキュメンタリーを撮り続けてはいても、この監督の独特な視線の原風景にはアフリカがあるのかもしれない、そしてそれはあながち見当違いではない、ともわたしは考えます。ランペドゥーサにはエリトレアからの移民の人々も多くやってきており、Fuocoammareにもエリトレアの国名、人々の映像が何度か強調されている。

またランペドゥーサは、地質学的には、パンテッレリア島と同じく、アフリカに属する島でもあります。ただ、緑に溢れ、モスカート・ワインなどの特産で潤い、著名人たちの夏の広大な別荘が各所にある、リッチに発展したパンテッレリアとは大きく異なり、ランペドゥーサには欧州の果てがアフリカと融合した、風景と感性が損なわれることなく漂っている。イタリア語で字幕が出るほどの強い方言に、共に映画を観たローマの若い世代に尋ねてみると「どこか遠い『外国』の暮らしのようだと感じる」ということでした。

今起こっている悲劇を証言する

「日常的にテレビニュース、あるいはドキュメンタリーフィルムから爆弾のように流れてくるイメージを払拭する必要があった。別の視点から『現実』を語る必要があったんだ。何隻の難民船が上陸し、何人の犠牲者が出て、何人の難民が来たかなんて、『数』では現実は語れないよ。フィルムの中でマリア(サムエーレの祖母)が料理をしている最中、『250人が乗船した船が難破して多くの犠牲者を出した』というラジオを聴きながら『神のご加護がありますように(宗教的な成句で)』と呟くシーンがあるが、これが僕らが現実に対峙した時の日常の反応だ。しかしそう呟くだけで、僕らは何もしないじゃないか。このフィルムの重要な点は、今起こっている現実の悲劇の証言であるということだと思う。皆が黙ったままであれば、欧州は何の解決策も提示しない。数え切れないほどの人々が海で命を落としているのに、誰も何もしないんだ」

「岸からたった7kmしか離れていない場所で何千という子供たちが命を落としているんだよ。何より、地中海を墓場にしてはいけない、と僕は言いたいんだ。また、バリアを張り巡らすのはまったくの無駄だとも言いたい。歴史上、『壁』というものが永遠に存在できた試しはなく、絶望と死から逃れようとしている人々には、ここに逃げてくる以外には他に選択の余地はないんだからね。ある難民のひとりがこう言ったのを聞いたことがある。『海を渡ると、命を落とすかもしれない。しかし(かもしれない)という一縷の望みがあるなら、海を渡るしか、他に選択の余地がないんだ』とね」(ロージ談 /ラ・レプッブリカ紙)

「政治家たちはこの非常事態に一刻も早く対応しなければならない。 最近国連が開いたパリでのサミットのような会議を開くべきだとも僕は考えている。難民の人々を助けるために、アフリカと欧州の間で橋渡しをしている人々は、中東、アフリカの戦争が一刻も早く終わって欲しいと毎日心を痛め、祈っているんだ。さもなくば、難民はどんどん増え、はじめは数えるほどだったのが3億人にまで膨れ上がるかもしれない」(ロージ談/パノラマ誌)

 

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島で撮影中のロージ監督。ANSA通信より。

 

1年の間、島に滞在して、島民たちと共に暮らしながら撮影したロージ同様、エディターのジャコポ・クゥアドリもまた、ベルリン映画祭の直前まで、映画の全編を島で編集したそうです。編集までのすべてを島で制作することが、何より大切な過程であったとロージは強調しています。クゥアドリも島の漁師たちと長い時間をかけて友人となり、サムエーレの家の夕飯に招かれ、島の空気を深く吸い込んでいった。はじめからまったくシナリオのないドキュメンタリーは、ただ待ちながら偶然と出会うことが勝負です。長い間、何も起こることがない日が続くと、島でロージの助監督を務めたペッピーノが車でやってきて、「エピソードを探しに行こう」とロージを島じゅうのあちらこちらに連れていったそうです。

また、ドキュメンタリーのいくつかの決め手となるシーンは、ベルリン映画祭の数週間前、きわどい期間に撮影されている。 たとえば映画のタイトルとなる Fuocoammareー第二次世界大戦中、港に停泊していたイタリア軍のマッダレーナ号が連合軍に爆撃され、真っ暗闇の深夜だというのに、海が真っ赤に燃え上がった、と島民に語りつがれる逸話をサムエーレの祖母が語るシーンもそのうちのひとつで、それまで別のタイトルを考えていたロージは、そのシーンに出会った瞬間に、Fuocoammareをタイトルにすることを即決した、と語っています。

「3週間しかランペドゥーサに滞在していなかったとしたら、こんなドキュメンタリーは作れなかったよ。Fuocoammareという映画は処女生殖、つまり映画そのものが自ら自分を生み出していったと言えるかもしれない。たったひとつのシーンもシナリオ通り、あるいは僕が思いついたというシーンがないんだ。すべてがカメラの前で偶然に起こったということは、素晴らしいことなんだよ。僕の映画はすべてリアリティから生まれているということだからね。僕はそれをドキュメンタリーの神性と呼ぶんだけれど、それはときどき、大変な贈り物をしてくれることがある」(ロージ談/インテルナチョナーレ誌)

映画のテーマソング『Fuocoammare』は、1943年の爆撃の歌を歌った原曲を残す音源が島になかったため、島の人々がうろ覚えに覚えていたメロディを島のミュージシャン、そしてラジオのDJでもあるピッポと仲間たちが再現したものです。

 

*Fuocoammare、ピッポの演奏クリップ 原曲はFuoco a Mmare

 

島民と難民、すべての人々を診るピエトロ・バルトロ医師

このドキュメンタリーが生まれるにあたり、重要なキーパーソンとなったのが、登場人物のひとり、島の診療所の医者であり、25年間、この島に到着する移民の人々すべての健康状態をチェックし続けてきたピエトロ・バルトロ医師です。当初、ロージは島の診療所に病人としてバルトロ医師を訪ねている。

「はじめて会った時、彼は具合が悪いと言ってやってきたんだ。それが口実だったのかどうかは、いまだに分からないけれど。確かにその時の彼は軽く咳き込んではいたがね。はじめはわたしは彼が誰なのかは分からず、長い間、いろいろな話をしたんだが、結局彼の病気の治療の話はせずじまいだった。やがて彼の正体が分かった時に、わたしは真剣に難民船にまつわる島の話をはじめ、さまざまな資料を見せたんだよ。わたしのこの島での25年間の経験を彼に語った。わたしの話を聞きながら、最初、彼はかなり気落ちしたようで、ドキュメンタリーの方向性が決まらないから撮影がはじめられない、と言っていた。そのときの彼は、撮影は諦めてこの島から出て行こうとまで思っていたようだった」

「わたしは自分が今まで経験した難民の受け入れの画像、エピソードをすべて記録したファイルを USBメモリにして持っていたんだが、それを彼に渡すことに決めた。これを見て、ドキュメンタリーを作るか作らないか決めてほしいと言ってね。そしてそのファイルを見た彼が、撮影を決心してくれたんだ。地中海は大陸と大陸を分離させる海ではない。大陸を結ぶ海、人々を、文化をひとつにしてきた海なんだよ。地中海は死の海ではなく、生命の海なんだ」(RapTV/バルトロ医師談)

島に居を移す前、1ヶ月間ロケハンのために島に滞在、そのときのロージは、「ランペドゥーサを舞台にドキュメンタリーを制作することは、まったくもって不可能」と思ったのだそうです。そこで軽い気管支炎にかかって、バルトロ医師を訪ね、2時間ほど島の現状について話している。ロージが誰か知らない医師に思い切ってドキュメンタリーのプロジェクト、抱いている疑念を打ち明けたとき、バルトロ医師は件のUSBメモリをロージに手渡しています。そのメモリを監督はローマに持ち帰り、ひとつひとつのファイルを丹念に見たあとに、自分が何をすべきかを明確に理解した。

「この映画祭での受賞で、わたしたち島民の痛みが終わる状況が生まれることを、ひたすら祈っているんだ。わたしは今でも、難民の人々の下船の異常で呼ばれた時のことを鮮明に憶えている。『何かおかしいから来てくれ』と連絡を受け急いで駆けつけ、促されるまま、通常漁をした魚を保管する船底に降りてみた。暗くて何も見えないので、携帯電話の光であたりを照らしてはじめて、自分がたくさんの人々の亡骸の上を歩いていることに気づいたんだ。彼らは一番最初に船に乗り込んだグループで、後から甲板に出るつもりだったのが、あまりにたくさんの人々が乗り込んだために外に出られなくなってしまった。甲板からは彼らが出られないように、つっかえ棒がされ、その上に人が座り、行き場がなくなった。ほとんどがエンジンのガスで窒息死していて、爪には木片が詰まり、血糊があちらこちらにべったりとついていた。必死で扉を開けようとしたのだろう」(バルトロ医師談/ラ・レプッブリカ紙)

この話をするとき、バルトロ医師の目には怒りと苦悩の涙が浮かんだそうです。バルトロ医師は数え切れないほどたくさんの地中海の悲劇に立ち会いながら、人間である以上、その凄惨な光景には決して慣れることはない、と断言します。何回も出会ったその光景が悪夢として蘇り、夜、飛び起きることもある。

「わたしは彼らと同じ人間なんだ。彼らは戦禍を逃れ、砂漠を渡り、牢屋で拷問を受け、飢えにもがき、何千キロもの道のりを多くの困難から逃れながら、歩いて地中海へたどり着いた。それなのに海で生命を失うなんて。ランペドゥーサに来ることは、死ぬことしか待っていない世界から逃れる、彼らのたったひとつの生きる希望。ここにやってくることができても、救援センターの中で、外の世界に出ることを1年待たなければならない人々もいる。以前島に到着していたのは、大きく、しっかりした船だったから難民の人々は島に楽々と下船することができた。しかし海を渡って欧州に来ることができることを知った人々が押し寄せるため、移民を食い物にしているペテンブローカーたちは、大きな波が来ればたちどころに沈むゴムボートに、次から次に人々を押し込めて、島へ送ろうとする。彼らのほとんどはまったく泳げないんだよ。水に落ちると鉛のように沈んでしまう。こんな大きなリスクを負ってやって来た、たった50万人(2016年3月21日にはギリシャを含むと100万人を超えた)の難民の人々を、何故、7億人の人口を誇る欧州が受け入れることができないというんだ」(バルトロ医師談/ラ・レプッブリカ紙)

「2万5千人の人々が犠牲者になったという人もいる。しかしわたしは、彼らの数を数えたことはない。彼らはひとりひとりの人間で、数ではその犠牲を計ることなどは決してできない。こんな現状を、わたしはまったく受け入れられないでいる。欧州の政治は一体何をしているんだ。壁を高くして、ペテンブローカーたちをのさばらせているだけじゃないか」(バルトロ医師/TG COM 24)

 

*バルトロ医師により、ランペドゥーサに持ち帰られた金熊賞のトロフィー。バルトロ医師は、「主人公はすべてのランペドゥーサの島民だ。難民の問題はイタリアだけでなく、ギリシャや他の国々の現象となっているが、私が訴えたいのは難民の人々への共感の気持ちだ。ランペドゥーサは一度も有刺鉄線でバリアを張ったことはないし、壁を作って拒絶したこともない。歴史が語るように、壁が長持ちしたことはないんだから」と語り、ランペドゥーサ市長は、「ベルリンという重要な映画祭で賞を獲ることができたことは、ランペドゥーサの島民ひとりひとりが賞を受けたことと同じだと思っている。やっとわたしたちが勝つことができたと思った。こんなにちいさく、遠い島の、ただでさえ難しい日常の生活の中、長い間、わたしたちだけの力で、この地中海の悲劇に立ち向かってきたんだ。この受賞が、地中海を巡る政治の変化のために重要な機会だと思っている。多分この映画が、政治が勇気を持って対処してくれるよう、わたしたちを助けてくれると思う」(抄訳)と語った。

 

ジャンフランコ・ロージ監督の決断。

ロージ監督は、実際に難民の人々を救助するイタリア軍の船に約一ヶ月乗り込んで撮影しています。

「一週間の間は何も起こらなかった。しばらくの間、僕は誰も行き交うことのない、幽霊船のような空っぽの船を撮影することになったが、あとから気づいたのだけれど、これは船長と乗組員が仕組んだテストだったんだ。彼らは僕がどういう人間か調べていたんだと思う。僕はしかしその間に、その船、戦争のために造られたイタリア軍の船の乗組員や船長、幹部たちと絆を持つことができたのだからね。そのおかげでドキュメンタリーでも、彼らの姿を撮影することができた。そしてその船から下船したあと、もう一度乗せてほしいと頼み込んで航海に出たときに、あの悲劇に出会うことになったんだ」

「2回目の航海では、われわれの乗った船が、救援活動の最前線で活動することになった。たくさんの難民船の救助をしたよ。それはまるでルーティーンのようでもあった。あの悲劇が起こるまではそうだったんだ。そうなんだ。僕はそれがどれほど過酷なことか、それまでまったく理解していなかった。『現実』という真の悲劇をこの目で見るまでは分からなかった。ゴムボートに乗っている僕らのもとに、次々と亡くなった人々が運ばれてきて動転し、躊躇した。ここからすぐに逃げるべきか、それともこの状況を撮影すべきか。そのとき、僕は証言者となる義務を感じたのは明らかだが、さらなる悲劇が待っているであろう船底に降りようという勇気が、どうしても湧いてこなかった」

「その僕の躊躇を見た船長が言ったんだ。『これは必要なことです。どうしてこの悲劇を撮影しないのですか。世界はこの状況を知るべきなんです』と。その情景を撮影した時が、自分にとっての最大の苦悩だった。これで終わりだ。これ以上何も撮影できない、とも思った。今でもその時の光景が記憶に焼きついて悪夢となって襲ってくるんだよ。あの船に乗り、その光景を見て、呼吸し、肉体を感じたこと、その感覚をいまだに拭い去れない。『死』を撮るということ、ホロコーストのガス室の前にいてカメラを回すことがどれほど苦痛なことか、どれほど厳しいことか。しかし僕は撮影することを選択したんだ。そののち、その映像を編集のときも直視することはできなかったし、編集のためのひとつの素材として扱うしか、その痛みに耐えられなかった。まず観客がこの事実を受け入れることができるのか、とも自問した。しかし他には選択肢はなかった。どの映像を使うかは、編集のジャコポ・クゥアドリにすべて任せることにした。いまでも僕は、あの瞬間の苦痛と困難に打ち勝てずにいるんだ」(ロージ談:ラ・レプッブリカ紙/インテルナチョナーレ誌)

移民を救援するイタリア海軍の船長は、「世界はこの状況を知る必要がある」と『現実』の撮影に何の制限もつけず、ロージを信頼してあらゆるすべての映像の編集を許可したそうです。

イタリアには、内務省が管轄する難民救援センターが( Cpsa、Cda、Cara)全国に14か所あります。ランペドゥーサ島のように、海を渡ってきた難民をまず最初に受け入れ、健康管理をする救援センターはCpsaと呼ばれ、ひとりひとり写真を撮影し、国際援助をリクエストできる状態にする。2015年に(1月1日から9月15日まで)イタリアが受け入れた難民はエリトレア(29019人)、ナイジェリア(13788人)ソマリア(8559人)、スーダン(6745人)、シリア(6324人)。これらの人々すべてが国際的な援助を受ける権利を有しています。

金熊賞受賞のあと、難民の人々のEUでの保護に動いてきたイタリアのレンツィ首相はこの映画のDVDを欧州の要人たちに送ってもいる。しかし、つい最近、EUとトルコ間で、バルカンルートでギリシャに渡ってきた不法と見なされる難民の人々を(難民の人々の欧州入り口は、イタリアルートとギリシャルートがありますが)シリアの人々も含めてトルコに強制送還、事実上『難民』の人々の欧州流入を規制する合意が成立しました。トルコに強制送還した難民ひとりにつき、EUがトルコにいる難民をひとり受け入れる、というこの奇妙な合意は、EUが受け入れる難民の人々を国連が選別するということですが、トルコは難民に関する1951年のジュネーブ条約を批准しておらず、明らかな国際法違反でもあります。

また、現在のトルコのように不安定な政情が続く場所に、難民の人々の個人個人の状況を把握することなく、乱暴にまとめて強制送還しても大丈夫なのでしょうか。トルコは難民受け入れのための資金援助を表明し、この合意を足がかりに、再びEU加盟の交渉へ乗り出す意志を明確にしています。その見返りとしてEUはトルコに経済援助を約束もしている。フランチェスコ教皇は復活祭を前にして「多くの人々が難民の人々の運命にあまりに無責任だ。真の愛はエゴイズム、権力、名声を超えたところに存在する」と発言。ギリシャをはじめ、EU内でも多くの疑問の声が上がり、多数の人権団体がこの合意に反対しています。

なお、映画館がひとつもないランペドゥーサの人々は、まだ自分たちの島を舞台に撮影されたFuocoammareを観ることができずにいますが、温かくなったら、島のどこかのオープンスペースで上映会を開くことを、島のDJのピッポ、彼の仲間たちが企画しているそうです。

 

*大統領府にも招かれ、トロフィーを大統領に見せるサムエーレ。

追記:2017年1月24日には、アカデミー賞、ドキュメンタリー部門でノミネートされています。

 

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