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『鉛の時代』激動がはじまる時 P.Fontana Ⅰ 

Anni di piombo Deep Roma Società Storia

そののち、15年もの長期間に渡って続く『鉛の時代』と呼ばれる暴力に満ちた悲劇の時代は、ミラノ、『フォンターナ広場爆破事件』を皮切りに、前触れなくはじまることになる。

(上:ミラノ全国農業銀行 16時37分 「チャオ、フェラーリ、子供達は元気かい」「元気だよ。君の家族はどうだい?」)

もちろん、事件当時の人々は、その事件の裏に謀略が張り巡らされていたことなど知る由もなく、無辜の市民が多く巻き込まれた Banca Nazionale dell’agricoltura-全国農業銀行で起こった大規模な爆破事件に、イタリアの人々は恐怖と悲嘆にくれながら、そののちの不穏な時代へと突入していった。

事件が起こる以前の、1960年代のイタリアは、戦後、ファシズムの呪縛を解かれ蘇った民主主義の理想のもと、市民側からさまざまな価値観が提示され、デモや集会など、それぞれの『権利』が主張された、いわば市民たちによる『実験的で活力に満ちた』時代であった、と一般には捉えられている。1963年に、当時のイタリア喜劇映画の マエストロ、マリオ・モニチェッリ監督が、1900年代後半のトリノの巨大工場を舞台に、当局に追われながらも工員を扇動する左翼思想教師(マルチェッロ・マストロヤンニ)を配した悲喜劇『I campagni-仲間たち』を制作しているが、この映画の思想的背景は、その時代に漂った『立ち上がる労働者』という「うねり」を反映している、と捉えてもいいかもしれない。

60年代のイタリアは、過酷な労働条件改善のため、労働者グループが長期ストライキを試みたり、学生たちもそのグループに加わって、マルクスだけではなく「毛沢東語録」などを読み、中華人民共和国の政体に憧憬を抱き熱狂していた時期でもある。また60年代の後半はともかく、少なくとも前半までは、それらの主張活動、デモなどには目立った衝突もなく、運動そのものに比較的緩やかな、牧歌的な空気が流れてもいたと言う。しかしながら、当時中国の『革命』に憧れを抱いた学生たちは、のちにその凄惨を知ることとなり、おおいに失望、一時であっても、それを支持したことで深く悔恨の念に囚われた、という告白を、その年代の人々から多く聞くのも事実だ。

 

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Enzo Isaia氏キュレーションによる60年代写真より『靴の行商』

 

やがてイタリア国内の経済は発展、しかし発展と同時に労働条件はさらに過酷になり、その状況をめぐって、学生、労働者を含む、左翼、アナーキズムの運動が活発化しはじめる。またこの時代、イタリア共産党勢力が『選挙』で躍進、市民の生活に大きく影響しはじめた。デモ集会に参加する、そのころの労働者のインタビューをYoutubeなどで見ると、「ストライキは民主主義における、労働者の当然の権利だ」と力強く主張していて、「なるほど、現代のイタリアで、え、今日もストライキ? といやにストライキが多いのも、この時代に端を発しているのだ」と思わぬところで、そのルーツに出会うこととなった。

その市民による民主主義における実験的な活動が盛んになりつつある時代の水面下、軍部、そして内務省のシークレットサービス、ネオファシスト=極右グループは、CIAなどの国際諜報、NATO、各国諜報とともに、1967年、クーデターによる軍事専制国家となったギリシャと同様に、イタリアに軍事政権を樹立しようと目するプロジェクトを練りつつあったということだ。すでに述べたが、のちに右翼テロリスト、ヴィンチェンツォ・ヴィンチグェッラが取り調べの途中、「1965年、ローマのホテルParco dei Principiにて、軍部高官のオーガナイズによる会議が行われ、ネオファシストOrdine Nuovo( new orderー 当時の主要右翼団体)幹部、警察幹部、判事、ジャーナリストなどが参加して、「緊張作戦」の具体案が提示されたこと」を供述している。

冷戦期、欧州の共産党勢力の拡大を嫌った米国CIA、北大西洋条約機構NATOの、共産勢力を地中海沿岸諸国で封じ込める謀略、Gladio (諸刃の剣)ーグラディオ作戦。その作戦の一環として、欧州で最も共産党勢力が強大となったイタリアにおいては、軍部諜報局、内務諜報局、ネオファシストグループにより、緊張作戦(Strategia della tensione)」がプロジェクトされ、ローマのホテルで合意されたのである。

作戦の目的は文字通り、無防備に市民が生活するイタリア社会を大きな『緊張』に投げ込み、国内政治を急激に不安定化させる。そこで政府に『非常事態宣言』を発令させ、緊張状態と混乱のなか、クーデターを起こし、軍事専制国家を実現しようというものだった。たとえば、『フォンターナ広場爆破事件』が起こって一年も経たない1970年の7月には、「黒い君主」と呼ばれるボルゲーゼ家のジュニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼが組織するネオファシストFronte Nazionaleが内務省を占拠するクーデター未遂事件が起こっている。ボルゲーゼ家はルネサンス後期に教皇パオロ5世、そののち4人の枢機卿を輩出した名門で、ジュニオ・ヴァレリオ・ボルゲーゼは大戦中、軍で功績を挙げた『英雄』として名高い人物。当時のネオファシストたちへの影響力も大きかった。ちなみにクーデターの合図は『トラ、トラ、トラ』であった。

この時代のイタリアに、ネオファシスト=極右グループは大小10ほどあったが、そのなかでも、このボルゲーゼのFronte Nazionale、ピーノ・ラウティが率いて、数々のテロリストたちが属したOrdine Nuovo (new order)、Avanguardia Nazionaleが最も規模の大きいものであり、賛同者を多く有していた。

さて、いまから4回に分けて『フォンターナ広場虐殺事件』の経過を追跡していくが、この大規模テロは、その後イタリアに起こった、いくつもの大規模テロ同様、取り調べでも、その後の裁判でも大勢の人々、犯人と目される人物を巻き込み、真実に近いであろう事実がいくつも暴かれながらも、結局、Colpevole – 有罪になった犯人が誰一人存在しない、という、理不尽な結果となっている。

『鉛の時代』を語るうえで、重要なこの事件は、のちにいくつもの小説、映画、報道特集が組まれ、その後何年にも渡って続く大規模テロ事件をも総称し、「Le stragi di stato」(国家による虐殺事件)とも呼ばれている。現在もよく使われる、時代の事件を総称するこの名は、弁護士エドアルド・ディ・ジョバンニ、ジャーナリスト、マルコ・リジーニ、エドガルド・ペレグリーニらが1970年に匿名で出版した分析エッセイ集の題名から取られたものだ。この本は、未だ真相がまったく明らかになっていなかった爆破事件が起こった数ヶ月後に出版されたにも関わらず、事件の背後にCIA、イタリアのシークレットサービス、ネオファシストの存在があることを分析、指摘する驚異的な内容で、当時の左翼学生たちに大きな影響を及ぼしている。

しかしこの時期に起こったテロ事件の数々を、表題通り「イタリア国そのものがテロの陰謀をくわだてた」と短絡的に断定するわけにはいかないかもしれない。一般的な解釈としては(たとえば近代史家などの)大統領、首相、内閣で構成される法治国家としてのイタリア国家の心臓部がその謀略をプロジェクトした、と捉えられているわけではない。あくまでも国家の周縁の機関に属する、たとえば軍部官僚、警察官僚、またシークレットサービスによるものであるとされる。これをDoppio stato (二重の国家)、国家の中心と周縁で国政に力を持つ勢力、という言い方で表現されることも多い。

いずれにしても、事件を追ううちに一連のテロ事件に有罪者が出なかったことに、本当に当時の政府有力者にまったく同意がなかったのか、司法に圧力がかかったのではないか、と疑問が残ることは確かで、何人かの当時の政府有力者たちが「グラディオ作戦ー緊張作戦」に関わっていた、いや、認識、合意していたと確信できる証言が多々あるのも事実だ。実際、その作戦の存在を認識していたことを吐露した元首相(ジュリオ・アンドレオッティ)も存在する。

この『フォンターナ広場爆破事件』から端を発した『鉛の時代』、1969年から84年までの間に、イタリア各地では60個の爆弾が爆発(8個が不発)、16の大規模テロ事件が起こり、136人の死者、770人の重軽傷者が出たにも関わらず、それぞれの事件の多くが暴かれながらも有罪者が出ない、という謎に包まれたままになっている。

また、ミラノの全国農業銀行の爆破事件は、マルコ・トゥリッロ・ジョルダーナ監督により『Romanzo di una strage(ある虐殺の物語)』として映画化もされ、日本でも『フォンターナ広場・イタリアの陰謀』として公開されている。事件の複雑怪奇を含め、ドラマティックで興味深く、参考になる映画だが、事件を扇動した嫌疑をかけられ自殺した(他殺?)とされるアナーキスト、ジョゼッペ・ピネッリと、捜査の指揮をとった警視ルイジ・カラブレージを核に、ある意味ロマンティックにストーリーが展開され、その後の気が遠くなるような長時間の経過が理解できないので、ここでは映画を参考にせず、全体の流れを、あくまで一般に認識される概要としてまとめてみようと考える。なお、この事件に関わる、資料に出てくるすべての人物を網羅すると、あまりの多さに混乱するため、大筋の人物だけに絞ることにする。この「フォンターナ事件」を追跡することで、それからの時代の流れがおおかた理解できそうだ。

1969年、クリスマスを間近に控え、街が賑わう12月12日、夕刻。市場が開かれたその日、4時30分に銀行が閉まったあとも、ミラノのフォンターナ広場にあるBanca Nazionale dell’agricolturaー全国農業銀行には多くの顧客が詰めかけていた。

帰りにクリスマスの買い物に出かけようと銀行を訪れた家族、入金、送金に訪れたビジネスマン、店主たちがホールを行き交い、日常の会話、挨拶を交わすいつもの銀行の風景。それが一変するのは、4時37分のことである。まだ大勢の顧客がいるホールで、突然、すさまじい大爆発が起こった。この大規模な爆発で17人が死亡(3人の遺体不明)、88人が重軽傷を負う(Wikipedia)。大惨事であった。

 

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『テロリストによる攻撃 ミラノ 大惨事 13人死亡90人重軽傷』(翌日のコリエレ・デッラ・セーラ紙)

 

その爆発と同日、ミラノのスカラ座広場にあるイタリア商業銀行にも爆弾が仕掛けられたが、それは不発のまま処理されている。また、同日午後4時55分にはローマ、ヴェネト通りの地下道、サンバジリオ通りのBNL(全国労働銀行)でも爆発が起こり、13人が重軽傷を負った。さらにヴェネチア広場では午後5時20分から30分の間に2つの爆弾が爆発した。つまり12月12日だけでミラノ、ローマに5つの爆弾が仕掛けられたのだ。

このミラノ、ローマ連続爆破事件に、イタリアじゅうが震撼、事件直後、各メディアは警察の動きをいちはやく掴み、一斉にアナーキストの犯行である、と断定的に報道した。当時、政治活動を行うグループでは、アナーキストが最も過激なグループだと一般に認識されていたからだが、専門家たちは「アナーキストが通常攻撃するのは資本家、権力者であり、一般の市民を巻き添えにする無差別テロは信じがたい」と一様に首を捻ったという証言もある。いずれにしても即日、警察は84人の政治活動家に嫌疑をかけ、ジョゼッペ・ピネッリを含むアナーキストグループを連行、本格的な取り調べが始まった。

ところが一方ではこんな動きが起こっている。事件から四日後のことだ。トレヴィーゾのキリスト教民主党員であり、またネオファシストでもあるグイド・ロレンツォンが弁護士を伴って、警察に出頭、事件の犯人は友人のジョバンニ・ヴェンドゥーラではないか、と疑惑を告白しているのだ。

ロレンツォンによると、事件後の14日に会ったヴェンドゥーラが「フォンターナ広場で爆発した爆弾をどのように作ったか、その爆弾はどのような仕組みになっていたか」を克明に説明し、「スカラ座の商業銀行が爆発しなかったのはおかしい。何を間違ったのか」などと不満を語ったというのだ。ヴェンドゥーラはまた、「この爆発によって、左翼と右翼の間にもっと混乱が起こってもいいのに、なぜ起こらないのか。政府も『緊急事態宣言』を発令しない。これでだめならもっと大掛かりな他のことを考えなければならない」とも語っている。

ヴェンドゥーラという男は、極右グループ Ordine Nuovoに属する男で、ちいさい出版社を経営し、右翼雑誌を発行していた。「自分はテロリスト組織に属し、強力な爆弾を作っている。これから政府を挑発し、クーデターを起こす予定だ」ともロレンツォンに話していた。このときのロレンツォンの話から、トレヴィーゾのカロジェーリ検事は捜査を開始、その過程でネオナチズムの新思想家であるフランコ・フレーダもヴェンドゥーラ同様、事件に関わる可能性をつきとめる。しかしこのときのロレンツォンの告白は、中枢の捜査においては重要証言とは見なされないまま空洞化した。

捜査はまったく違う方向へと進んでいくことになる。

 

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