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Teatro Valle Occupato

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ヴァッレ劇場の占拠ちゅう、占拠をしているアーティストたちは WEBサイトを作り、占拠の経過、その週の演目や公演会、カンファレンスの予定などを掲載していました。

また、観客として訪れた人々が残したEメイルには毎週プログラムが届き、Facebookも駆使、その週のプログラムだけではなく、劇場運営に関する公開会議への参加の呼びかけもあった。FacebookもWEBサイトも、占拠が終わった現在も、更新が続けられています。経緯は後述しますが、ローマ市からの『退去要請』で場所を失ったのちも、占拠者たちが主催する公開ミーティングは頻繁に行われ、今後の活動を模索する活動は続いている。たとえばCentro Sociale(チェントロ・ソチャーレ)とカテゴライズされる Angelo Mai AltroveSPIN TIME LABSなど、文化的な占拠者たちとも連携して、ワークショップやミーティング、フェスタなども、かなりの頻度で行われているようです。

しかしいずれの占拠者たちも、昨今のネット上での情報活動はめざましいものがあります。占拠者たちのスペースで何か面白いイベントが起こりそうなときは、その情報をキャッチした新聞がWEB版で紹介することもあり、相変わらず多くの市民が「占拠」を支持しているのです。

ところで一体なぜ、Teatro Valle の若者たちは、ローマの伝統的な劇場を「即刻強制退去」のリスクを冒してまでわざわざ占拠したのか。『占拠』という、ある意味伝統的な慣習にのっとった、若さと情熱にまかせた無謀な行動ではなかったのか。多くの人々はそう思うかもしれませんが、彼らの動機を探るうちに、ローマという都市の、昨今の経済状況を背景にした、劇場、美術館(骨董、美術品の修復も含め)をはじめとする「公共文化財産」の危機が、浮かび上がってきます。

ローマ市民は、時代を経て現代に残された「公共文化財産」は、そもそも市民の財産であり、「市」がその公共財産を経済活動に利用する、つまり文化財産そのものの本来の価値が分からない、たとえば民間のグローバル企業などと結託して、平板に商業化するなど以ての外だ、という意識も強く、多くの若い世代がその思いを引き継いでもいます。このコンセプトのベースは、イタリア全国で大規模な、政治市民戦争が繰り広げられた、70年代から80年代にかけて培われたものだと思われますが、この流れについては追って探っていくつもりです。

劇場に関して言えば、たとえば演目によってはなかなかチケットが取れないオペラ座でさえ、文化予算が削られたせいで経営が困難なくらいですから、他の劇場の窮状は想像に難くありません。また文化予算が捻出できないローマ市の経済的窮乏は、単純に欧州を襲った金融危機のせいだけではなく、ほかの多くのケースと同じく、その構造に多くの不正と癒着が絡んでもいるからです。湯水のように無駄に流れるお金も存在していて、2014年の年末、ローマのマフィア、Banda della maglianaが主導しての、ローマ市中枢人物たちが関わった大規模な横領事件も発覚しています。

さて、Teatro Valle Occupatoのサイトに、2011年、6月11日に交付された彼らの占拠宣言があります。それを多少意訳しながら、引用します。

 

空っぽの劇場、
決まりきった人たちによる、決まりきった、退屈なフェスティバル、
いつだってまったく同じ

間違った使い方をされる公共予算、予算を食うだけで意味のない機関ばかり、しかも月曜はお休み(ローマではたいていの公共機関では月曜は半日作業で、実質機能しないので)。スケジュールがたたず、失業手当もない演劇関係者。有り余る預金を持つ官僚たち、お金のないアーティストたち。巨大イベントにからむ政治、困窮するテアトロ。

2014年6月14日、文化の革命を起こすために、我々は劇場を占拠し、現在その変遷を模索ちゅう。

占拠は、集団的政治実現である。言葉だけの「公共」の場を、真に公共のものとするための行動だ。われわれは ヴァッレ劇場を占拠しつづける。なぜなら、この行動がわれわれの主張を達成させる過程に必要だからだ:
この占拠は他の何ものにも依存することなく、独自の政治を促し、生産的な仕事を構築し、法を超えた権利の理念を主張し、新しい経済循環を発展させるための行動だ。

公共の水を守る闘い*と、法律家ウーゴ・マッテイ、ステファノ・ロドタ*との出会いから、われわれにはひとつの直感が生まれた。:それは公共財産のカテゴリーとして、民間経営の利潤の論理と、わずらわしい公共の官僚政治の間に、それらとは違った別のアクティビティ・スペースを開くことができるはずだ、ということだ。
他の多くの闘いと絆を結ぶことで、あらゆる葛藤の基盤としてその場を大きくしていくことができるはずだ。実践の中心となるのは、リレーションシップ。みなで力を合わせることは、経済危機、緊縮政治から、われわれの日常、そして仕事に自由をもたらすひとつの確実な方法だ。公共財産を占拠することは、直接民主主義、革新的な行動である。自主管理によるヴァッレ劇場はアゴラであり、ひとつの都市であり、別の意味での市民権のあり方を提示する場でもある。開かれた舞台、仲間たち、アーティストたち、舞台制作者たちと協力しあうプロジェクトや、ローマのインディペンデントスペースとして、いくつかのグループが協力しあうイタリアの実験的な場でもある。さらには、その質を保証できる教育、また自主教育のスペースともなる。
必要に応じて、分かち合うことのできるディメンションで、われわれが創り、変化させる場なのだ。

*財政困難に陥ったローマ市が公共財産とみなされる『水』を市場で売ろうとする動きに対抗するグループ。古代、水道システムの発展により一大帝国を築き、豊かで安全な水のおかげで永遠の都として今に続くローマの市民には、生命の基盤である『水』を、ビジネスに利用することはどうにも耐え難い、と感じる人々が多く存在します。二人の法律家は、いずれも人権に関する法律において、法曹界だけでなく、一般においても著名な学者。ステファノ・ロドタはイタリア政府、下院議会の副議長をも勤め、2013年には大統領候補ともなっています。このオックスフォード大学、スタンフォードロースクールの客員教授でもある法律家もTeatro Valleの占拠を支持、憲法と照合し、公共財産団体として法律化するための助言をしています。

 

このような文章を読むと、いかにもひと昔前の革新グループのような印象を受けますが、実際に占拠を敢行した若者たちは、美男美女を含め、いかにも現代っ子らしくデジタル機器を駆使する、個性的でチャーミングな子たちです。公開会議では、ひとりひとりが、はっきりとした主張を持ち、明瞭な言葉でそれを伝える様が、さすがに役者だと唸りました。身体から振り絞るような、熱烈な発言には満場の拍手。また、演劇現場の人々であろう少し年配の人々も気さくで明るい印象で、目があえば、ニコリと微笑むフレンドリーなムードです。話しかけると、「もはや右とか左とかじゃないんだよね。これはインターナショナルなシステムの問題なんだ」と、癒着だらけの政治、市場至上主義にすっかりうんざりしている様子でもありました。

破綻寸前のローマ市のずさんな公共予算の管理、ローマ市所有の美術館の民営化案、『水』管理機関の民営化案。実際、ローマ市が財政困難で管理できなくなった劇場、映画館、公共スペースが廃屋になっている、とたびたび報道されてもいます。2014年の夏には、突然リストラを勧告されたオペラ座のオーケストラの団員一丸になってのストライキ騒動もあり、世界的に著名な指揮者、リカルド・ムーティがオペラ座の座長を降りた一件は、インターナショナルメディアでも話題になりました。しかも、そんな財政難にも関わらず、意味不明な、ほとんど機能を有していない幽霊機関に文化予算が流れている、という事実も、公開会議に招かれた関係者により証言されています。

ヴァッレ劇場を占拠した演劇人たちは、問題は劇場だけではなく、ローマ市民すべての文化の危機であると直感し、劇場の舞台を市民に解放し、演劇だけではなく、それぞれの市民グループがそれぞれのテーマで議論しあう場としても、劇場を提供したのです。また、イタリアだけでなく海外でも活躍している脚本家、演出家を招いて、演劇やダンス、文芸関係のワークショップも数多く開催されました。

 

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多くの人々が自由に出入りしたテアトロ・ヴァッレのロビー

 

「公共予算は、それぞれの一般、民間、官僚機構も含め、提案された文化プロジェクトをコンペにかけて、その勝利者に振り分けられるわけだけれど、たいていは主催者と応募者の間にすでに話ができていて、コネクションのある輩がコンペに勝つようになっているんだ。コンペには公平性がない。だいたいイタリアという国は、文化的なエネルギー、つまり消費できない次元のエネルギーで形成されているようなものなんだよ。ラファエッロの絵はいくら観たって消費されないよな。あんまりたくさんの人が読んだから、ダンテの『神曲』が消費されつくされて、読む部分がなくなって、白紙になったという話もないだろ? それなのにローマ市は古代のグラディアトーレの墓を修復する予算がないというんで、それを無神経にセメントで塗りこんでしまおう、などというアイデアを出したりするんだ。グレコ・ローマンのシンボルでもあるグラディアトーレの墓をセメント、でだよ。そういうレベルで文化を語ることができると思うかい?」

公開討論にでかけて、ロビーでうろうろしているところ、メンバーのひとりがそんなことを言っているのを小耳に挟みました。

まず何と言っても劇場の『占拠』は、自分たちだけで独占しようという侵略ではなく、そもそも市民のものでもあるスペースがおざなりにされているのなら、自分たちの力で守り、アーティストとともに誰でもが楽しめる劇場として解放しよう、という意図だった。政治に期待できず、官僚仕事で窒息しそうな社会に辟易しているから、自分たちの手で自分たちのための文化の場を創ってしまおう、という若々しい野心だったのです。

 

喜劇役者ベルゴンジーニ、推理小説の第一人者カミレッリ、カンヌ映画祭常連のナンニ・モレッティ、オスカー受賞監督ベニーニをはじめ、そうそうたる俳優陣、そして法律家までが支持。

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