スパドリーニ広場の難民の人々と支援団体Baobab

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テルミニ駅に続きローマで2番めに大きなティブルティーナ駅。最近改修され、近代的なガラスの建造物となったその駅の、ガランと人通りの少ない東出口にある閑散としたスパドリーニ広場が、ここ数ヶ月間、自発的な市民ボランティア難民サポートグループBaobab (バオバブ)の、緊急難民センターとなっていることを新聞各紙も注目。たびたびローマの人々の話題に上ります。難民の人々の亡命、移民のための法的な手続き、心のケア、温かい食事、そしてサッカーの試合まで、そのサポートのきめ細かさと人間味のある対応で、高い評価を受けるバオバブを実際に訪ねてみました(写真はクーパ通りから強制退去させられる以前のバオバブのシンボル的壁画)。

この数年の間に、アフリカ各国からたくさんの難民の人々がローマを訪れ滞在、街の風景は以前とは、ほんの少し違う印象になりました。2、3年前までは北アフリカ、つまりマグレブ、あるいは東欧からの移民の人々が主に集まっていた公園も、今ではアフリカ人の若い青年たちが目立ち、数人で音楽を聴いたり、寝袋にくるまってベンチで昼寝をしたり、空を見上げたり、携帯電話に見入っている光景に遭遇します。

また、いつの間にかローマ中心部の舗道に、50人近い人々が大きく布を広げ、中古の靴や洋服、ラジオや携帯電話やバッテリー、サングラスやアクセサリーなどを売る即興『市』が立つなど、ローマにいながらエスニック・ストリートが満喫できる、という状況ともなりました。この市で中古品を売っているのも、つい最近まで主にマグレブの人々、あるいはルーマニア人、アフリカ人、ロムの人々でしたが、最近ではアフリカ人の青年たちの数がぐんと増えています。

もちろんこの、許可なしの即興『市』は違法なため、警察の車がサイレンとともに近づいて来ると、誰もが皆大慌てで、布の四方を器用に結び風呂敷状に荷物を抱え込み、電光石火で消え去ります。包み損ねた靴の片方や洋服が、ポツリポツリと所在なく、どこか寂しそうに残る舗道を、制服を着た数人のカラビニエリが歩き回り始めると、人が行き交ういつもの風景に戻るというわけです。

が、それも束の間、カラビニエリが立ち去るや否や、またどこからか、商人たちがひとりふたりと現れて、布が敷かれ、みるみるうちに商品が並ぶ。近隣の人々は、公共の狭い舗道に「市」が立ち、黒山の人だかりができ身動きが取れず、通行の妨げになることに加え、「市場の胴元は地元の犯罪集団なのでは」、あるいは「売られているのはひょっとしたら盗品かもしれないじゃないか」と疑いを募らせ、度々抗議が巻き起こります。

確かに数年前、移民やロムの人々のための公共予算を、マフィアとローマ市当局者が大挙してつるんで食い物にしていた収賄事件で、驚くほど大勢の逮捕者を出した、という経緯を持つローマ市ですから、住人の人々の懸念は「当たらずとも遠からず」なのかもしれません。また、行き場のない、あるいは働き口のない移民、あるいは難民の人々の弱みに付け込んで、いかさま商売や売春、ドラッグビジネスに引き込む、闇に蠢く犯罪ネットワークが存在することは想像に難くなく、折にふれ、テレビ討論番組などでも問題視されます。

 

 

しかし実際のところ、最近よく見かけるこの即興市が、一体どのようなシステムになっているのか、わたしには情報を得る伝手も、状況を分析する知識もありませんし、ただ通行人として、なるべく自然に、しかし注意深く観察しながら、その場を通り過ぎるにとどまるということになります。今までにわたしが観察するところ、なかには手練れた古株らしく、眼光鋭く采配を振るっている輩もいますが、中古の靴や雑貨を売っている多くの若い青年たちは、屈託なく、乱暴なところもなく、行き交う通行人には意外と気を使っているように見受けられます。

突如として自宅のある建造物前の舗道に「市」という異景が出現し、驚いた近隣住民の抗議を理解もしますし、もちろん、その背後に本当に犯罪集団が存在するのであれば、即刻、一網打尽に検挙されるべきだとも考える。しかし、この歴史的なエクソダス下において、行き場なく、ただ増え続ける移民、難民の人々に他に生き抜く手段なく、自然発生的に「売れるものはなんでも売る」という「市」を街角に形成せざるを得ないのなら、それもしかたがないのではないか、とも思うのが正直なところです。

また、移民など外国人が多く集まる地区では、夜半ナイフを突きつけられて金品を巻き上げられる、あるいは商店やバールの強盗騒ぎが起こるようにもなりました。そこでやはり近隣の人々の外国人に対する抗議が巻き起こりますが、起こる事件の全てに外国人が関与している、というわけではなくとも、「イタリアに起こる全ての不幸は増加する外国人のせいだ」とことさらに強調、人々の憎悪を煽りたい勢力、例えば極右政党である『北部同盟』『カーサ・パウンド』などが騒ぐことも確かです。最近、空き巣に入ろうとした東欧からの移民を狩猟用のライフルで撃って過剰防衛、そしてそれは正当防衛だ、と主張する人々に北部同盟は同調、抗議デモにも参加しています。

いずれにしても、陸路からイタリアに入ってきた移民、そして地中海を渡ってきた難民の人々、わたしを含む(日本人もextracomuntariー法的には欧州圏外からの全ての移民の人々と同じ立場です)外国人すべてが、貧しくか弱き、純情な善人であるはずがないのと同様、イタリア人すべてが心やさしき、おおらかな善人というわけでもなく、イタリア国内における異人種間の葛藤には今のところ終わりが見えません。

しかしそんな状況下においても、わたし個人は可能な限り、地中海を渡って欧州を訪れる難民の人々を、ひたすら受け入れるべきだと思っています。この街はそもそもローマ帝国の、荒れすさんだ廃墟を風景に持つ街。善悪も平和もバイオレンスも平等に飲み込みながら、何事もなかったかのように、ただひたすら鷹揚に時を刻んできたわけですから、現在の緊急事態をもいつのまにか飲み込んでしまい、歴史に同化してしまうに違いないとも考えます。

さて、本題。ローマでは有名なバオバブ市民ボランティア難民緊急センターを訪ねる前に、とりあえずローマの難民の人々の現状を調べてみることにしました。

 

アフリカから欧州への移動への道程。オレンジが東ルート、ブルーが西ルート、紫が海路。(インターナショナル誌より)

 

現在までの難民の人々の状況

2016年11月6日の時点で地中海を渡り、あるいは陸路でイタリアへ渡ってきた難民の人々は175,339人(地中海経由の168,542人)。史上最高の人数を記録しています。その難民の人々のうち137,555人の人々は公的機関であるCas(緊急受け入れセンター)に暫定的に滞在、13,963人がCda(難民の人々にまず職を探したり住居を提供する受け入れセンター)かCara (国際保護ー亡命を希望する人々の受け入れセンター)へ、760人がホットスポット(下船ののち、まず最初に難民の人々が通過する身元確認センター)、23,061人がSprar( Cas、Caraを経た政治亡命者を、地域に溶け込むよう働きかけをする避難申請保護機関)の管理下にある、という報告が、AGI(イタリアン・ジャーナリスティック・エージェンシー)の記事でなされている。ローマが属するラツィオ州は、その難民の人々の13%を引き受けるロンバルディア州に次いで、9%の人々を受け入れているのだそうです。

なお、2017年1月6日のil sole 24ore紙では、2016年にイタリアに上陸したのは、最終的には181,436人に達したと報道されました。

一方、「国境なき医師団」の、亡命、避難、難民申請を希望している難民の人々の調査によると、現在、少なくとも10,000人の人々が、非公式にイタリア国内に滞在していることが報告されています。ここ数年間、国際保護を求める人々が急激に増加し、Sprarのシステムが機能していないために、本来の受け入れシステムから漏れ、不法に滞在せざるを得ない人々です。この10,000人の人々に関して、「国境なき医師団」は2タイプに分類、イタリアの国境を渡ってまだ間もなく、法的な受け入れプロセスを待って、滞在する場所がないままに道や広場など公共のオープンスペースで夜明かしをしなければならない人々、あるいは何年かイタリアに滞在しながら、法的プロセスを受けることなく、社会にも交わることができず、廃墟やコンテナ、あるいはバラックに滞在する人々であることを指摘。いずれのケースにおいても、その劣悪な生活環境が心配されています(ラ・レプッブリカ紙)。

ローマに関して言えば、現在ローマに滞在する5,000人を越す難民の人々は、2017年の終わりには11,000人に膨らむと予想されている。ローマに存在する上記のSprarが、1日消費税込み35ユーロ(この金額はネット上で一人歩きし、難民の人々が高級ペンションに滞在し、35ユーロが無条件に給料のように支払われている、などとさまざまなデマが飛び交っています)でサポートしている人々は2,768人に上ります。しかしそのサポートには屋根のある滞在場所は保証されていません(コリエレ・デッラ・セーラ紙)。

県の管轄が、8000人以上の人々のためにローマ市内、郊外に滞在できる場所を探して入るそうですが、受け入れプロセスが不十分なまま、対応が遅れ、日々、混乱が膨らむという状況です。また、そもそもローマは難民の人々の目的地である北欧州へ行くための通過点でしたが、それぞれの国の国境が閉じられつつある現在、イタリアに残留する人々が多くなったのも一つの要因と考えられます。

 

バオバブ・エクスペリエンスが活動するティブルティーナ駅、スパドリーニ広場

 

バオバブ・エクスペリエンスとスパドリーニ広場

場所さえ把握していれば、メトロの駅から10分もかからない「駅裏」にも関わらず、バオバブの活動拠点であるスパドリーニ広場へはじめて行った日は、一旦駅を出て、ぐるりと大きく一巡り、人気のない林と廃屋に囲まれた一本道をただひたすらに歩き、1時間以上もかかって探さなければなりませんでした。Google Mapにもその広場の名前はまだ登録されておらず、駅を行き交う人々、バール、駅員さん、タクシーの運転手さん、と誰に聞いてもスパトリーニ広場が駅のすぐ裏にあることを知らず、人に尋ねるたびに全く違う方向を示されるからでした。

途中、「もうこれは無理」と諦めそうになりながら、ようやくその広場に到着。広場で数人の難民の青年たちと話していたボランティアの若い女性を見つけて「道ゆく誰もこの広場を知らず、ここに来るのは非常に大変でした」と言うと、「そう、この広場の名前はまだ一般的ではないから、はじめはみんな迷うのよ。みんな、ここまで辿り着くのは大変」となかなかシンボリックな答えが返ってきた。というのも市民だけで構成するこの難民サポートグループ、バオバブのボランティアシステムを頼りに一縷の望みを抱いて、この広場に来る難民申請を希望する人々も紆余曲折、さまざまな道のりを経て、ようやくこの広場に辿りつくからです。

今にも雨が降り出しそうな厚い雲に覆われ、冷たい風が吹き荒れるその日のスパトリーニ広場は、広々としながら閑散としていました。難民の青年たちとボランティア以外にはほとんど人影もなく、数少ない本数のバスが発着する停留所があるだけの、無機的な打ちっ放しのセメントで囲まれた広場。大通りを隔てた向こうには、わたしがひたすら歩いてきた、舗装もされていない泥だらけの一本道が通る、うらびれた風景の小高い丘が広がります。ふと、どんよりとした雲が垂れ込める空を見上げると、頬にポツリと水滴が落ち、やがて本格的に雨が降りはじめた。広場にいた我々は一斉にバスの停留所の狭い庇へと駈けることになりました。

青年たちを見渡すと、なかには途方に暮れた表情の人物が幾人かはいても、その他の青年たちは塀の上に座って、イヤフォーンで音楽を聴いていたり、ボランティアの人も混じって数人のグループで冗談を言い合って笑ったりと、それぞれ自由に行動し、想像していたよりも伸びやかな雰囲気。その後何度かその広場へ行って気づいたのですが、ほぼ毎日交替でやってきて、彼らの話し相手をしたり相談事を聞く若いボランティアの男女の存在は、明らかに彼らの大きな心の支えになっているようです。ここでは誰もが友達、ボランティアたちはただやさしいだけではなく、彼らの間で問題が起こればハッキリと厳しく指摘、一緒に解決策を考え、嬉しいときには抱き合って喜んでいる。

深刻な眼の病気を患い、医者からの処方箋を手にした人物の周囲では、ボランティアの女性と通訳の男性が、処方箋を訳し入念に説明し、不明な記述があれば、医者に電話をして確認をとります。そのうち、寄付された洋服や靴を大きな紙袋に入れたボランティアが現れ、タオルや洗面道具の入ったキットも配布されました。こうして一日じゅう、ボランティアがひっきりなしに入れ替わり立ち替わり現れて、彼らだけが広場に置き去りにされることはありません。「私たちのコミュニケーションにとって、まず言葉が一番はじめの壁なの。それに色々ひどい状況に直面して来た人々だから、信頼を得るのはとても難しい」との声も聞きましたが、私の見る限り、青年たちはバオバブの人々に全幅の信頼を置いているように思えました。

現在、公共のオープンスペースである、このスパドリーニ広場を起点に活動しているバオバブは、市民が自発的に形成した難民の人々をサポートするアソシエーションです。一般市民、医師、看護師、学生、アーティストなど、50人から100人のボランティアが、中継点としてであれ、滞在地としてであれ、ローマを訪れる難民の人々のために常時活動しています。この広場には現在、スーダン、エチオピア、ソマリア、エリトリア、イラク、パキスタンなどの国々から渡ってきた30人から35人ほどの人々(その多くは若い青年たち。また、日によって人数が増えます)が、夜は舗道にテントを張って生活しているそうです。その中には少数ですが若い女性の姿もあります。

 

ボランティアの人々が開いた昼食会での一コマ。Matteo Nardone 氏の写真を引用。www.matteonardone.com

 

バオバブは、そもそもティブルティーナ地域のVia Cupa(クーパ通り)の古いガラス工場を占拠していたグループが、市民の完全自主管理に基づく、ローマを通過する難民の人々のためのサポートセンターをはじめたのが由来。近年になって、トランジットでローマを訪れる難民の人々が増えるにつれ、「ローマを通過する人々に、できるだけトラウマを作らないように」とデリケートな気配りと、責任を持って活動するこのグループが大きく注目され、イタリア国内主要紙だけではなく、ニューヨーク・タイムス紙も報道しています。(英語ですがNYT紙が製作した動画はこちらから)

クーパ通りにセンターがあった頃のバオバブは、何ヶ月もサハラを歩き、リビアでは牢獄に入れられ、拷問を受け、死をも覚悟して地中海を渡って来た人々に、温かい食事とベッドを提供するだけではなく、ローマの市街地を散歩したり、サッカーの試合を開催したり、と人間同士の温かい抱擁で迎えていた。ローマに滞在する難民の人々に必要な食料や医薬品、衣類は全てローマ市民有志が寄贈したもののみで賄われてもいました。つまり一切国家の介在なく、市民の善意のみで円滑に機能していたわけです。

そのバオバブが「占拠している場所を所有者に戻せ」と2015年12月、アンチテロリスト特殊部隊まで導入され強制退去となった際には、主要各メディア、多くの市民から「国家の予算を1ユーロも使わず、市民で構成した素晴らしいボランティア救援センターの例であったにもかかわらず、そこに国家が介在する余地がなかったから、目障りだったのだ」と大きな非難が巻き起こり、ネット上でも議論となり、いくつかの抗議デモも開催されました。

市民の善意で集まった大量の医薬品、食料、衣類をも当局が押収。さらに当局は、着の身着のままでイタリアにたどり着いた難民の人々が所持していた数少ない持ち物、彼らを自らの土地と結びつける心の支えであろう、家族の写真や御守りまで持ち去っています。バオバブのボランティアたちが継続的に当局に抗議し、難民の人々の所持品を取り戻した時には、多くの人々はすでにローマを立ち去った後だったそうです。そしてあらゆる『占拠』の強制退去の例にもれず、「所有者に戻す」という名目での退去から1年以上が過ぎても、クーパ通りの建物は、閉ざされたまま廃墟となっています。

強制退去後のバオバブのボランティアたちはしかし、場所を失っても活動を中断することはありませんでした。いくつかの場所を模索したのち、2016年の10月から、名称もバオバブ・エクスペリエンスと改め、現在のスパトリーニ広場に緊急の難民中継センターを設置。連絡事項はFacebookの非公開グループのページに頻繁に更新され、そのページを訪ねれば、活動の予定が分かるようになっています。

もちろん確実な場所を構え、トータルに難民の人々をケア、サポートするという当初の計画からは大きくかけ離れていますが、それでも現場に行くとボランティアの人々の無駄のない、プロフェッショナルな、しかし人間味溢れるサポートには目を見張る。この広場を訪れる、何らかの理由で公的機関であるSprar の保護を受けられなかった難民の人々の心理的なサポート、医療サポート、難民申請のための法律的手続きのサポート、食料、衣料、文化、娯楽サポートと、屋根のある建物からオープンスペースのテントに変わったこと以外、内容的にはクーパ通り時代のバオバブとほぼ同様のサポートが行われています。

 

サッカーフィールドで行われた青年たちのサッカーの試合は、驚く迫力。誰もがかなりの力量でかっこよく、白熱しました。なにより試合の後のリラックスした皆の笑顔は眩しかった。この日は仕事帰りのボランティアの人々も多く試合を見にきていました。

 

急がれるローマ市の対応

こんな出来事にも遭遇しました。その日、スパドリーニ広場に行くと、リビアからの船に乗ってシチリアへたどり着き、南イタリアの都市を経由してローマへ来た、ふたりのエリトリア人の法律的な滞在手続きのためのインタビューがちょうど行われているところでした。一人はまだ18歳のあどけなさの残る青年、もうひとりは40歳ほどの男性だった。ボランティアの女性と通訳の女性ふたりが、名前や年齢、出身地、ローマへ来た経緯など、手際よくインタビューしたのち、方々へ手短かに確認の電話するうち、40歳ほどの男性の頬に一筋の涙が突然こぼれ落ちた。「わたしには妻と4人の子供がいるのに、電話をかけて無事を伝えることもできないなんて」と掌で顔を覆います。その涙に、周囲の誰もがやりきれない思いを抱いた。

ボランティアの人々は、ほぼ毎日、この場所に来る全ての人々の、それぞれの重い現実に対峙しなければならない。それはかなりの精神力を要する上に、大きな責任を問われる仕事でもある。男性の涙にもらい泣きをしながらも通訳の女性とボランティアの女性は、やさしく彼の肩を抱いて、何時間もふたりの男性と話し合い、彼らが取るべき最も有効な方法を慎重に探っていきます。ボランティアたちのこのような丁寧なサポートは、難民の人々の間でも口コミで伝わり、バオバブを頼ってスパドリーニ広場へやってくる人々が多くいるそうです。また、以前バオバブにしばらく滞在したのち、無事、住居や仕事を見つけ、今度は自分が難民の人々の通訳やボランティアとして手伝いにやってくる青年にも何人か出会いました。

「現在バオバブ・エクスペリエンスは、このスパドリーニ広場で、彼らに法的な滞在許可のドキュメントをリクエストするための法律的なプロセスをはじめ、さまざまなサポートをしているけれど、もちろんバオバブだけではなく、他の多くの市民アソシエーションと協力しながら進めているんだ。例えばCIR(イタリア亡命センター)、Action diritti in Movimento(権利のためのアクショングループ)、Medu(人権のための医療団)、A buon diritto(人権侵害の報告を、市民の意見として政府議会に反映させるアソシエーション)、Radicali(70年代、『鉛の時代』から、多くの人権問題を提起、法律化した実績を持つ政党)など。Meduは火曜日と木曜日にこの広場で、人々の健康状態を診て、必要な薬を供給している」

 

MEDUの医師は、大きなトランクに薬を積んでスパドリーニ広場で、難民の人々の健康状態の相談にのる。

 

ボランティアのひとり、ヴァレリオ・ベブアクア氏に現在のバオバブ・エクスペリエンスの活動の概要を説明していただきました。Meduの医師たちは、難民の人々が欧州に辿りつくために、どれほど困難な状況に遭ったのか、それぞれの告白を記録、アーカイブにしているそうです。特にリビアの刑務所では、酷い拷問に遭った人も数多くいる。わずかなガソリンを積んだ航海が危うい粗末なゴムボートに、悪徳商人(犯罪組織とも言われます)の仲介で無理やり乗せられ、イタリアに辿り着いた人々です。子供達も含め、最後の難関である地中海で生命を落とした人々が多く存在する。Meduの医師たちは、身体的な暴力、緊張は、同時に心理的にも大きな暴力となる、と訴えています。

また、吹きざらしのスパドリーニ広場の状況、特に気温が大きく下がる冬の夜のテントは過酷です。毎日ボランティアの人々が温かい食事を用意して持ってきてはくれても、トイレもなく、シャワーもなく、プライベートな空間もなく、特に数少ない女性にとっては耐え難い状況だと思います。それでも若いボランティアの人々と冗談を言ったり、サッカーをする時の彼らは、若く、力強く、溌剌とし、美しくもある。それぞれに性格もありますが、 2度、3度訪ねて顔なじみになると、「なんで昨日、来なかったの?」と気軽に声をかけてくる青年もいます。

「今ここにいる人々は、他の国へ行くためにローマを通過地点として、一週間ぐらいで国境のある北イタリアへ出発する人々もいれば、Asilo Politico Protezione Internazionale (国際協定に基づく亡命ビザ)をリクエストし、住む場所を模索している人々もいる。今日は、今いる彼らに加えて、新たな人々が到着することになっているが、これから本格的に春が訪れ、温かくなると、もっともっと増えてくると思うよ。シチリアに上陸する船が多くなれば、ここに来る人も自動的に増えるはずだ」

「僕らはこの2年間で60,000人以上の難民の人々を受け入れたんだ。春や夏になると、700人、800人の人々がここを訪れることが予想されてもいる。この状況下で僕らが望んでいるのは、まず第一に、彼らを尊厳を持って受け入れる、という姿勢。本来は国の機構が考えなければならないことだけれど、今、イタリアではその機構が機能していない。今ここにいる彼らをサポートする機関がまったくないのなら、僕ら市民がやらなければならないじゃないか」

「僕らもローマ市に、今のこの状況を一刻も早く解決できるようにリクエストしているし、話し合いの場を何度も持っているんだよ。例えば、僕らはまず最初の受け入れをする『ハブ』をローマに作ることを提案している。これからの季節、どんどん彼らの人数は増えるわけだし、テントを張る許可も必要だ。しかしローマ市は、それは不可能だ、というんだ。彼らが僕らに提案しているのは、この地域にある建物を6月までに修復して60人の人々を受け入れる施設を作る、ということだが、たったの60人では、ほとんど意味をなさない。6月には一体何人の人々がここに来るか、今の時点ではまったく予想がつかないのだからね」

クーパ通りに場所を構えていたセンターが強制退去されたのち、行き場なく公共の広場で難民の人々を受け入れざるを得なくなったバオバブ・エクスペリエンスに、住人や通行人からは当然のように抗議が起こり、当局の圧力も強くなってきたのだそうです。冬期の最も寒い時期には、「赤十字」がテントを張って92人の難民の人々を受け入れる、という動きもありましたが、増え続ける難民の人々の受け入れのための根本的な解決策は未だ見つかっていない。「難民の人、ひとりひとりに尊厳ある受け入れを」とバオバブ、その他のアソシエーションのボランティア、また多くのアクティビストたちがローマ市と議論を繰り返している最中、市は現在の状況をシステム化することには前向きでも、実現の動きは今のところ具体的には見られません。

ローマは他の欧州の大都市の中でも、特に難民の人々への対応が遅れていると言われています。一日に300人から500人の人々がローマを通過するにも関わらず、ハブとなる公共の施設がなく、リビアから到着する船は年々多くなり、北ヨーロッパの国々が国境を閉じはじめたことで、事態はいよいよ急を容する事態となっている。

 

話を聞かせてくれた22歳のサンバ。

 

さて、スパドリーニ広場でサッカーに興じる青年たちの写真を撮っていると、ひとりの青年が話しかけてきました。ガンビアから来たという英語が堪能なサンバという青年でした。しばらく立ち話をしたのち、話を聞かせてほしいとお願いすると快諾してくれた。

「多分人類は、歴史上今までに体験しなかったような酷い状況を体験している、と僕は思うんだ。自然環境の壊滅的状態は目も当てられないし、世界の政治もめちゃくちゃ。そう思わないかい? 僕はガンビアから来たんだけれどね。ガンビアだよ。知らない? セネガルの内側にある国。専制政治がどうしても嫌で、未来を信じて飛び出して来たんだ。他の皆と同じく、リビアを通って、船に乗ってシチリアに来たんだけれどね」

「しばらくあちこちを動いたのち、このスパドリーニ広場には、僕の法律的な手続きをしてくれている弁護士に教えてもらって来た。今のところ、しばらくの間、ここに滞在することになりそうだね。リビア?リビアは言語を絶する酷い状況だよ。暴力に満ち溢れている。13、4歳のちいさい子供まで武装してるんだよ。その子たちがこっちにおいで、と手招きしても近づいちゃいけないんだ。不用意に近づいていって、銃で撃たれた者を、僕はこの目で見たんだから。本当だよ。簡単に人が殺される日常だなんて。まったく酷い状況だ」

「イタリアに来て、屋根もないところで過ごさなければいけないことにはすっかり落胆しているよ。今のこの状況では何ひとつ未来が見えず、自分でプロジェクトすることもできないからね。一切の停止状態、どうしていいのか今のところさっぱりわからない。しかしね、僕はイスラム教の『神』の存在を信じているからね。神は僕を超え、僕の人生を超えた存在だから。だからこれからのことをあまり考えすぎないようにしているんだ。過去のことも、未来のこともあまり考えてばかりいると、悪い方向へと導かれていくから。神が導く方へと行くしかないじゃないか」

自国語以外に4カ国語が操れるという彼、サンバの望みはサッカー関係の仕事に就く、ということでした。ガンビアでは、チームに属して、実際に選手として活躍していたのだそうです。落ち着いた、腹の据わった口調で、自らの意見を明確に主張する青年だった。

スパドリーニ広場で未来がはじまることを待っている彼らは、それぞれがそれぞれの意見を持った、前途ある青年たちです。同時代に生きる人間として、多難を超えて欧州にたどり着いたこの青年たちの運命が、彼らの味方となってくれることを、心から願う。

いずれにしても、何度かバオバブを訪ねて目の当たりにした、若いボランティアの人々の真っ直ぐで誠実、そして共感に溢れるサポートには、毎回胸が熱くなりました。こんな人々、若者たちがいる世界の未来は捨てたもんじゃない、と強い希望を持つ、わたしにとっては大変重要な出会いとなった次第です。

 

スパドリーニ広場でサッカーに興じる青年たち。

 

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