クリスマス・シーズンに可決した人生最期の『自由』に関する法律:Biotestamento

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2017年もあっという間に暮れようとしています。今年は世界のあちらこちらで一触即発の雰囲気が醸され、このまま世界は一体どこへ向かうのだろう、とじわっと不穏な風が吹く、そんなニュースが多い1年でした。それでも明日は明日の風が吹く。世界じゅうに幸せな2018年が訪れるような明るい風が吹くことを願いたいと思います。ともあれ、今年のクリスマスは、遂にイタリアの下院、上院ともに通過して可決した法案、Biotestamento ( デリケートなテーマなので、訳すのが難しいのですが、「生物学的遺言」、意訳すると「人生の最期の医療を自ら決める自由」というところでしょうか)のことを、少し学んでみることにしました。

自分自身についても、また近親者についても、その人生最期の医療について考えるのは、本当に難しい問題。今のうちにしっかり考えておかなくてはならない、と思いつつも忙しく過ぎ行く日常、なかなか実感が伴う考えが浮かばないのが率直なところです。しかし不慮の出来事が起こらない限り、必ずその時はやってくる。

まず、(わたし自身を含めて)患者本人の意志を何より尊重してほしい、と願ってはいても、もし、その本人自身に決断を下すキャパシティがなくなってしまった場合、誰がどの時点で生命の線引きをするのか、その責任は誰が負うのか、医者なのか、患者なのか、患者の近親者なのか、責任の所在が曖昧なまま、むしろ、それを考え続けると、宗教的な問題になっていきます。近年の目覚ましい医療テクノロジーの発展で、身体機能が不能となり、意思表示が全くできないにも関わらず、延命治療が可能になるケースがあることも、『死』というものがより複雑になった一因かもしれません。そして、その医療と患者の関係を整理したのが、今回イタリアで可決されたBiotestamentoという法律と言えるでしょう。

12月8日は、地球上で唯一、『原罪』を持たないサンタ・マドンナの『無原罪の御宿り』の祝日。11月末からはじまるイタリアのクリスマス・シーズンが、この日を境にいよいよ本格的にクリスマスらしくなっていきます。人生の最期の治療に関して、本人、あるいは近親者、配偶者など、本人が信頼する人物の『自由意志に託す』法的契約を医師と患者の間で取り交わす、という法律『Biotestamento(生物学的遺言)』は、その数日後の12月4日に上院で可決されました。自らの最期における治療のあり方に自由意志を持つということは、すなわち自らの生命に責任を負うということでもある。市民の発案から11年間という長い歳月をかけて実現した法律です。カトリックの倫理観が覆うイタリアでの可決は難しいのではないか、とも思っていましたが、今年に入って、下院、上院と次々に可決されることになりました。

イタリア語ではクリスマスのことを『Natale(ナターレ)ー降誕祭』といいますから、神の子であるイエス・キリストの誕生を祝う時期に、人が自分の人生の最期、延命治療を含める医療のあり方を、自分の意志で、責任を持って自由に決定する、という法律が可決し、神の子の誕生』と人間の『死』を同時に考える機会となったわけです。法案が通過した際は、下院でも上院でも大きな拍手に湧いたそうです。

この法案を発案した一市民、ピエールジョルジョ・ウェルビー(2006年に逝去)、そのパートナー、そしてその他の市民たちと共に、今まで粘り強く闘ってきたのもまた、今は亡きマルコ・パンネーラ、そしてエンマ・ボニーノを核とするPartito Radicale (革新党)を中心とした人々。前回の投稿でも書きましたが、市民の『権利』と『自由』に関する法律は、ほぼラディカーリ(革新党のメンバー)が市民の声を代弁、粘り強く法律化してきたと言えます。今回のBiotestamento(人生の最期における治療の選択の自由)の可決で、ラディカーリのその底力が再び明らかになりました。

法案が通過した直後、「最近まで、まさかこの法案が可決するとは誰も信じてなかった」とイル・ファット・コーティディアーノ紙が書いていましたが、M5s (五つ星運動)、PD(民主党)及びイタリア中道左派各党が『賛成』派として連帯したとしても、法案を『安楽死(自殺幇助)』と捉える右派、極右派、カトリック派議員の反対もあり、可決まではたどり着かない、と誰もが考えていた。コリエレ・デッラ・セーラ紙は、この法律の議論は、常に力関係の駆け引きと私利私欲にまみれた、騒がしい『政争』の外市民の声が純粋に反映され議員たちにとっては『徳』を積むレッスンになった、とのコラムを掲載しています。確かに下院、上院ともに、生命の尊厳をおごそかに議論、あらゆる法案の可決の際に常に喧しいPD(民主党)VS  M5S(五つ星運動)も、今回は賛成に回り、市民の声を代弁しました。

Biotestamentoとは、どのような法律なのか

さて、そこで、今回可決されたBiotestamentoという法律がどういうものか、ラ・レプッブリカ紙、イル・ファット・コーティディアーノ紙を参考に理解の範囲で簡単にまとめてみようと思います。Testamento( テスタメント)とは、宗教的に言えば、聖書、新約聖書を示すこともある「受け継いでいく」という意を持つ言葉で、司法上で使う場合は、『遺言』という意味となります。

このBiotestimentoは、Dichiarazione anticipato di Trattamento (DAT:あらかじめ延命治療を含むあらゆる治療に、同意するか否かを書類上、あるいは音声録音で遺言する)を介し、人生の最期、意識がまだはっきりし、明瞭なうちに、医者が提案する、延命治療を含む治療を受け入れるか否かを、患者本人、あるいは患者が信頼する人物が決定するというものです。

前述したように、大きく発展した医療テクノロジーで、本人に認識がないまま、生命維持が可能になった現代、自分の意志通りに生活できなくなった状況に陥った場合、患者本人、あるいは本人にそのキャパシティがない場合は、近親の人物など、信頼できる第三者が『生命』の最期に尊厳を持って自由意志で決定を下し、責任を持つことになります。

つまり、医師の采配により、患者本人が認めていない治療に従うのではなく、治療方法には、患者と医師双方の同意が必要となる(DAT)。また治療の進行状況により、患者、あるいはその信頼者の希望で、治療方法を変更することも可能です。延命治療に関しても、医者は患者、あるいは患者の信頼者の意志を尊重しなくてはならず、未成年者が患者の場合は、本人の意向に加え、両親、それに変わる保護者の同意が必要になります。

また、重要なのは、この法律は『安楽死』や『介助による自殺』を許容するものではなく、イタリアでは従来通り『安楽死』も『介助による自殺』も殺人とみなされるということ。

『安楽死』と言えば、数ヶ月前のことですが、DJとして活躍していた青年が、ひどい交通事故で全身が麻痺した状態となり、延命装置で生きることは地獄だと、恋人や家族と共にスイスへ渡り、『安楽死』を選んだ、という出来事がありました。自らの『生命』の最期を決定した青年の行動には、さまざまな議論が巻き起こり、現在、裁判ともなっています。カトリックに信仰のないわたしは、自分がその立場におかれたなら、それを望むかもしれない、とも考えますし、イタリア国内でもBiotestamentoの可決後、さまざまなケースが引用され、たびたび議論となりますが、カトリックの総本山のあるイタリアでは、おそらく今後も積極的『安楽死』が『安楽死』として法律で認められることはないと思います。

 

 

『生命の最期』に関するフランチェスコ教皇のメッセージ

この法律の可決の際、カトリック派の議員たちが『介助による自殺』と見なして反対していたという経緯があるので、『生命倫理』の分野においては、すぐれた研究を誇るヴァチカンの見解は一体どういうものなのか、まず気になりました。そこで少し調べてみたところ、今年の11月16日、17日に行われた『ワールド・メディカル・アソシエーション』の『生命の最期』をテーマとした欧州会議におけるフランチェスコ教皇のメッセージがWeb上で見つかった。

むしろこのメッセージを読むことで、今回可決した、イタリアの法律の内容が深く理解できたように思います。したがってカトリックの議員が、何故『安楽死(自殺幇助)』と見なしたのか、その理由がいまひとつ理解できませんでしたが、古いタイプのカトリック保守派の考えに基づいての反対だったのかもしれません。

以下、『生命の最期』に関する教皇の見解を抄訳します。意訳した部分もありますが、間違いなどありましたら、ご指摘いただければ、と思います。

「地上における『生命の最期』に関する疑問は、常に発せられ続けてきた疑問ですが、今日、人間が成し遂げた知識とテクノロジーの発展と改革で、それは新しい形を持つようになってきました。医療は常に治療能力を発展させ、たくさんの病気を治療することができるようになり、健康状態を良好にし、人々は長く生きることが可能になった。これは大変に有益なことではありますが、今日、過去においては考えられなかったような(医療的)状況下で、延命することも可能になりました」

「倫理的に、人間として『バランスのとれた治療(propozionalità delle cure) ※』と定義される治療とは一致しない治療を続けることを断念する、あるいは中断することは道徳的に妥当です」

※参考、1980年5月5日に開催されたCongregazione per la Dottrina della Fede (信仰の教義の信徒集会における『安楽死』に関する表明、IV:Acta Apostolicae Sedis LXXII [1980,542-552)

「この基準の特有な側面は、『(治療に関する)答えを出すことを、病人の状況、身体的活力、精神を鑑みて、待つ』という問題を熟慮していることです。つまり『延命治療』の断念をもまた、道徳的とみなす結論に達するということでもあります」

「もちろん、非常に悲劇的な状況と実際の医療のはざまにいるとき、降りかかるさまざまな要因を考慮することは、たいへんに難しいことです。状況を安定させるため、バランスのとれた医療手術を施すには、一般的なルールに沿った機械的な方法では充分ではありません。良識ある注意が必要であり、患者の精神状態、環境、周囲の者、あらゆることを熟慮しなければなりません。人生の極限にある死にゆく人は、個人的な次元でも、また相関的(周囲との関係)な次元でも、治療、介護を受けて、人間としての尊厳にふさわしい空間を得なければなりません」

「この過程で、患者は主役となります。これはCatechismo della Chiesa Cattolica (カトリック教会の基本原理)が明確に示していますが『決定は、それができる状態であれば、患者によってなされなければならない。まず、患者自身が、当然医師団と話し合い、提案された治療を熟考し、彼の病状にとってバランスのとれた治療かどうか、治療を断念するかどうかを含めて判断する。これは治療方法が細分化し、多岐にわたる仲介者が存在し、テクノロジーと組織という文脈を持つ現代の医療現場では、とても難しい判断でもあります」

「さらに、この判断の過程の要因として、科学技術の権力と経済利益が結びついた流れに影響され、治療を受けられる人々と受け入れられない人々の差異が大きく開き、条件づけられていることを、(わたしは)認識してもいます。洗練された、高額な先端治療を受けられるのは、ごく少数の特権階級の人々だけです。医療においても、不平等なシステムが増大しています。これは、世界じゅう、あらゆる大陸のグローバルなレベルで見られる現実です。しかし、また先進国に住む人々においても、治療の必要に迫られながら、経済状況によって治療が受けられない、というリスクがあります」

「民主主義社会では、このようなデリケートな問題は、誠実に熟考し、ー規則(法律)においてもーきちんと整理された形で、平静さをもって直面するべきです。可能な限り、状況を分かち合い、世界におけるそれぞれのヴィジョンの違い、倫理観の違い、宗教の違いを鑑みながら、それぞれがそれぞれの意見を聞き、受け入れることが必要です」

「もう一方では、国は、人間として人権を認められ、他の人々とともに社会を分かち合うことができるよう、あらゆる全ての人々を保護することを断念してはなりません。生きていくことが困難な弱者には、特に注意を払わなければなりません。医療の世界においてもまた、総合的な視点から、具体的に公共の利益となるような広い視野を持つことが求められています」

わたしはカトリックの信徒ではなくとも、フランチェスコ教皇のおっしゃることに、共感することがたびたびあります。医療テクノロジーの発展で、いよいよ決定が困難になった最期、『安楽死』でなく『延命治療』でもなく、患者が主役となった『バランス』のとれた治療を、と教皇は述べられている。このメッセージを読んで、すでに11月の時点で、教皇は、イタリアで可決するであろうBiotestamento法案を意識してらっしゃったのだろう、とわたしは解釈しました。

そういうわけで、今年のクリスマスは『生命』を考える機会となりました。街じゅうのイルミネーションがいよいよ賑やかになって、間もなく聖夜が訪れます。

It is the surprise of a Child God,
of a poor God,
of a weak God,
of a God who abandons his greatness to come close to each one of us.

pope Francis

やがて2018年。みなさまにとって、素晴らしい1年が訪れることを願って。

Merry X’mas 、そして良いお年を。

 

 

 

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