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イタリアのテアトロをぶち壊した Simone Carella

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シモーネ・カレッラ(写真左から2番目)の芝居をはじめて観たのは2001年、ローマ市営の劇場、テアトロ・インディアで上演された『Peppe er Tosto』でした。これはローマの『ディケンズ』と呼ばれるジョゼッペ・ジョアッキーノ・ベッリのソネットからインスパイアされた芝居で、テアトロと呼ぶにはあまりに大がかりなイベントだった。テアトロ・インディアの敷地全てを街角に見立て、数え切れないほど大勢の役者が縦横無尽に動き回り、あちらこちらで芝居が同時進行する、という度肝を抜かれるダイナミックな演出。今でもその時の光景と、鳥肌が立つような興奮をありありと思い浮かべることができます。

まず、テアトロ・インディアという劇場そのものが、かなり特殊な風情を醸す空間です。そもそもその辺りは、テベレ川に沿って発展した産業地帯の建造物が、斜陽とともに打ち捨てられて、いつしか雑草が生い茂り、哀愁というか寂寥感というか、ある種の詩情がそこはかと漂う地域。今は使われないまま天空にそびえる、Italgasの円形の鉄骨インプラントは、その形の面白さから、地域のシンボルオブジェともなり、ローマを舞台にしたさまざまな映画にも登場します。そしてテアトロ・インディアは、その一角、もはや栄光を失った過去の産業地域に埋もれるように目立たず、自己主張することなく存在している。

 

テアトロ・インディアの向こうにそびえるのが、今や使われなくなり、打ち捨てられた、Italgasのインプラント。

テアトロ・インディアの向こうにそびえるのが、今や使われなくなり捨てられた、Italgasのインプラント。写真は、テアトロ・インディアの工場跡の壁に白い靴をインスタレーションしたMimmo Paladinoの作品

 

そういえば、ローマの中心街を少し離れた場所を歩くと、必ずと言っていいほど、もはや使われていない比較的新しい(ローマでは1900年代初頭あたりの建造物でも新しいと表現するので)巨大なセメントの建造物が、荒れ果てるままに捨てられている光景に出会います。鉄の柵に何重にも鍵がかかった門を覗き込み、ガランとした寂しい灰色の空間、ペットボトルが風に吹かれてカラコロと鳴るのを見ながら、こんなに廃墟だらけなんて、ローマという都市そのものが、廃墟を増殖させるエネルギーを孕んでいるのかもしれない、とも考える。そしてその街に住むわたしたちも、あちらこちらに新たな廃墟が増え続けることに、何の違和感も覚えず、まったく自然なことだと気にも止めません。むしろ、あまりにモダンに発展した新興地を歩くと、人工的な虚りの街のように感じるくらいです。

さて、そのテアトロ・インディアですが、車で行くならともかく、ローマの中心街からそれほど離れていないというのに、交通の便が悪いのが難点ではあります。地下鉄ピラミデ駅を降り、車がガンガン飛ばして行き過ぎる通りを横切りながら、かなりの距離を歩かなければなりません。また、こんな劇場がこの地域に存在することを、ローマの人々は意外と知らず、途中、道に迷って道行く人に劇場の場所を尋ねても、「テアトロ・インディア? さあ、知らないなあ」と首を傾げられることも少なくない。いずれにしても、マガジーノ・ジェネラーレ地区と呼ばれるテアトロ・インディアへの道のりは、有名なライターが描いたグラフィティがあちこちにあったり、シックなエノテカ、ライブハウスがあったり、と散歩をするには面白い地域なので、道に迷うのも一興です。

「しかしこんな場所が劇場だなんて、それも市営だなんて・・・・。しかもローマなのにテアトロ・インディア(インド劇場)とは。ローマって、本当に脈絡がない」それがシモーネ・カレッラの芝居を観るために、テアトロ・インディアへはじめて出かけた際の、まず最初の印象でした。1950年代まで石鹸工場だったという産業跡地に造られた劇場は、やたら広く、崩れた建物の壁はむき出しのまま、荒れ果てている。上演時間が近づいて、あたりが暗闇に包まれてもほとんど照明がなく、敷地内の砂利道を、芝居を観に集まる黒い人影が、ぞろぞろと流れていく様子は異様でもありました。

 

テアトロ・インディア内の風景。写真はIlaria ScarpaのKing of Carrot Flowersより引用。

テアトロ・インディア内の風景。写真はIlaria ScarpaのKing of Carrot Flowersより引用。

 

テアトロ・インディアとシモーネ・カレッラ

いわば、劇場そのものがコンセプチュアルなインスタレーションのような趣でもあり、ローマならではの、ごく自然な廃墟感と殺風景さに、ただならないインパクトがある。このテアトロが、1999年当時、ローマ市営の劇場テアトロ・アルジェンティーナを任されていた舞台監督、また映画監督でもあるマリオ・マルトーネのディレクションのもと、意表をつく形でオープンした際は、「banalià(ありふれたこと)」を退屈、面白くない、美しくない、と厳しく断じる傾向があるローマのアーティストたちにも、おおいに歓迎されました。この項の後半にマルトーネがシモーネ・カレッラについて書いた記事を訳しましたが、テアトロ・インディアのそもそものアイデアは、自身にカレッラの芝居に参加した経験がなかったのなら生まれていない、と言い切っています。

イタリア演劇界の小柄な巨人、シモーネ・カレッラは2001年、その、自らのアイデアの延長にあるテアトロ・インディアを舞台に、「Peppe er Tosto」という大がかりな芝居を繰り広げ、枯れ果てた場所に生命の閃光が瞬く異空間を創出、大きな喝采を浴びた。なにしろ、ひとつの街が広い敷地を持つ廃墟、テアトロ・インディアのなかに忽然と現れ、その架空の街に住む、架空の住人たちが、好き勝手にそれぞれの物語をRomanesco (ローマの方言)で、めまぐるしく騒がしく語る、という芝居なのです。

貪欲で無礼、アイロニーに満ち、時にはきつい悪態もつく、毒々しくも賑やかに生きるローマの庶民のカオスが、良い意味で節操なく、あふれる「詩情」として押し寄せてきた。のちに聞いたところによると、この芝居には役者だけでなく、建築家やアーティストなど芝居の素人も参加していたということでした。

その時に観た芝居の破天荒な印象があまりに強く、イタリアの演劇に革命を起こした男として名高いシモーネ・カレッラは、きっと「いかにも前衛的で、芸術家然とした、鋭く知的、もしかしたら乱暴者」なのだろう、と長い間、想像していた。彼は、たとえばテアトロ・ヴァッレを占拠して、一種の社会現象を起こした若い演劇世代にも大きな影響を与え続け、70年代を中心とした彼の過激で、華々しい活動は、アートに関わる人々の間に語り継がれる伝説ともなっています。

ですから、その後知り合う機会を得て、ご本人とお話しした際、知的ではありながらも、あまりに親切でイージー、にこにこ優しい方だったので、拍子抜けした次第です。この人柄、いつも微笑みを絶やさず、仕事への情熱を失わうどころか年を経るほどに、さらに精力的にプロジェクトを進める『永遠の現役』としての生き方、どんな作品にでも面白い要素を見つけては褒め、権威的にふるまうことがまったくないシモーネ・カレッラに、誰もが魅了されるのだ、と、さまざまな人から聞くことになります。「天才」という評価もあちこちで聞きました。

実はこの、イタリアの60年代後半から現在まで、イタリアの芝居と文学、特に詩の分野、視覚芸術の世界に影響を与えてきたシモーネ・カレッラ氏に、インタビューを取らせて欲しい、とお願いしていました。「いいよ。いつでもおいで」と気軽に引き受けてくださったので、まず、彼の今までのお仕事をリサーチさせていただいたのち、涼しくなったらお邪魔しようと思っていたところです。

ついこの間まで、ヴェスパに乗ってローマ中を颯爽と走り回ってらしたし(時間には必ず遅れていらっしゃいましたが)、たまたまご一緒した吟遊詩人コンサートでは、「面白かった!」とはしゃいでらしたし、わたしが知るシモーネは、飄々とですが、時々歌ってみたり、踊ってみたり、いつもエネルギッシュでいらしたので、突然の訃報に耳を疑いました。かつて大病で入院されていたことは知っていても、誰もが「シモーネは不死身。前より元気になった」と断言し、実際、まだまだ若く、いつもお元気だったので、突然こんなことになるとは、まったく想像していなかった。彼を知っている誰もが衝撃を受け、ローマから彼がいなくなるなんてあまりに寂しい、と泣きました。

が、しかし、シモーネ・カレッラに最も似合わないのが、ノスタルジーであり、感傷でもあります。60年代後半から、あちらこちらで、めちゃくちゃに芝居の固定概念をぶち壊し、とても魅力的なamica(女友達)がいつも傍にいて、同世代にも若い世代にも愛されたこの人物にインタビューを取らせていただくことが叶わないことを、わたしは悲しく思いますが、それでもやっぱりシモーネ・カレッラには感傷は似合わない。ですからこの項では、私がインタビューのために用意したリサーチをもとに、シモーネ・カレッラと彼が生きた時代の空気を辿ってみることにしたいと思います(Doppiozero、ラ・レップブリカ紙、コリエレ・デッラ・セーラ紙、マニフェスト紙などを参照)。

 

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晩年のシモーネ・カレッラ。

 

アディオ、シモーネ・カレッラ。50年間、イタリアの演劇に革命を起こし続けた男

これはラ・レプッブリカ紙がシモーネ・カレッラの追悼記事につけたタイトルです。コリエレ・デッラ・セーラ紙は「詩人たちの友人シモーネ・カレッラのアヴァンギャルド」というタイトルで追悼記事を掲載しました。

彼が演劇の活動を始めたのは60年代後半、この時期、日本でも「状況劇場」、「天井桟敷」などアングラと呼ばれる新しい演劇が、熱狂的に若者たちに受け入れられた時代ですから、シモーネ・カレッラたちが巻き起こしたアヴァンギャルド・ムーブメントが、イタリアの若者たちの間を席巻した時期と、ほぼ同時期なのは、イタリアと日本の戦後の動きを知る要素として、興味深く思います。

日本と同様、第二次世界大戦敗戦後に生まれた、イタリアのベビーブーマーたちを熱狂させた『革命』の理想は、政治思想だけでなく、文化思想にも大きく影響。イタリアではイタリア共産党が選挙のたびに躍進し、大規模ストライキやデモで、学生、労働者たち一致団結して自己主張しはじめた時代、いまだ『鉛の時代』のバイオレンス・カルトが吹き荒れる前の静けさの中、シモーネ・カレッラは、そののち彼の人生となる「アヴァンギャルド演劇」の夜明けを彩るシアター・グループと出会うことになりました。

1946年、プーリアのカルボナーラ生まれ。プーリア時代、カレッラの父親はヴェネゼイラへの出稼ぎで一家を養っていましたが、それでも暮らし向きは一向に良くならない。そこで母親がローマへの移住を決意し、父親も帰国、一家でローマへ移り住むことになる。戦後、イタリア南部を襲った貧困を逃れ、北イタリア、さらには欧州の他の国へと移住する人々が大勢いた時代です。

若く、貧しく、好奇心に満ちたカレッラは、ローマへ移住するとモンテマリオの高校へ通いはじめますが、途中結核を患い入院したため卒業できず、のちに独学で高校の卒業資格を得ています。「映画館で『エデンの園』を観ている時に気持ちが悪くなって入院したので、以後、その映画を観ようという気にならなかったね。それに、サナトリウムの描写のせいで、トーマス・マンの『魔の山』も読む気にならなかったよ」とカレッラはインタビューで答えている。退院した後、彼はスペイン広場のごく近くにあった、ロベルト・カプッチのメゾンに使い走りとして働くことになった。オートクチュールのデザイナーだったカプッチを、カレッラは、非常にアーティスティックな人物でもあったと、当時を振り返ります。

さて、カプッチのメゾンで働いていたティーンエイジャーだったカレッラは、メゾンの仕事を終え帰る道すがら、スペイン広場を通るたびに見かける、長髪で奇妙な服装でたむろする集団に好奇心を抱き、自ら近づくことになりました。「その中に、素晴らしく美しい男がいてね、彼が言うんだ。『僕が見つめる女の子が、頬を赤く染めるかどうか、賭けようじゃないか』とね。そして彼は必ず成功する。彼に見つめられた女の子はみんな頬を赤らめたよ!」

長髪で奇妙な服を着た男たちは、当時マドンナ・デイ・モンティ通りの倉庫でアバンギャルドにパフォーマンス活動していた『テアトロ・ディオニソス』のメンバーでした。スペイン広場で彼らと仲良くなるうちに、カレッラは自然に『ディオニソス』に通うようになり、当時、ふつふつとわき上がろうとしていたアヴァンギャルド演劇の熱気に、自らを巻き込んでいきます。

 

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「テアトロ・ディオニソス」のメンバーとして、スポレートのフェスティバルに参加した頃のシモーネ・カレッラ。

 

「そもそも演劇は好きだったんだ。テアトロ・クイリーノ、テアトロ・エリゼオ、テアトロ・ヴァッレにはしょっちゅう通っていた。エリゼオでは僕の遠い親戚がバールのキャッシャーをやっていたので、すべての芝居を観に行ったよ。そうそう、フランク・シナトラのコンサートにも行った。その時のことだけど、不意に観衆にざわめきが起こり、振り返ると、リズ・テーラーがいたんだよ。ローマで『クレオパトラ』を撮影ちゅうだったんだね。そのあとにすっかり酔っ払ったリチャード・バートンもやってきた。さらには劇場のカメリエレに紛れ込むことにも成功してね。フランク・シナトラの楽屋へも忍び込んだんだ。シナトラの首に、火傷の跡のような傷跡があったのを覚えているよ。何よりすごくいいコンサートだった」

「ちいさい頃から、人前でおどけるのが好きな子供だったから、教会の僧侶たちは、僕にピエロを演じさせたりもしていたね。もちろん、僕はいつでも目立ちたがりだったから」

当時の教皇にまで挑発的なパフォーマンスを企て、逮捕者まで出した過激演劇集団『ディオニソス』は、街ゆく人々を巻き込む実験的なパフォーマンス、ストリート・シアターで、やがてローマの街角に、名を馳せるようになった。1967年、カレッラがディオニソスのメンバーとしてはじめて参加した、スポレートで開催されたフェスティバルでは、『貧しい演劇』で名が知れ渡っていたイェジー・グロトウスキーとも共演。「フェスティバルに参加した役者や演出家たちとは、一緒に酔っ払ったり、マリファナを一緒に吸ったり、すぐに友達になったが、グロトウスキーはいつも一人で休むことなくタバコを吸って、誰とも喋らず、まるで僧侶みたいな人物だった」

「その時代、僕らには、社会的な価値観に合わせなければならない、こうしなければならない、というような義務感がまったくなかったんだ。皆、好奇心と興味だけで動いて、同世代の友人同士が隔たりなく自由に交流していたし、僕はそのおかげで『ディオニソス』を通じて、アヴァンギャルド・ミュージックに出会い、アートに出会い、詩ー文学に出会った。また、1968年には「Gli Uccelliーウッチェッリ(小鳥たち)」というグループとも友達になったよ。彼らとは一緒に聖イーヴォ・アッラ・サピエンツァの鐘楼を『占拠』することに成功したんだ。ウッチェッリのメンバーはローマ大学サピエンツァの建築家の学生たちで、聖イーヴォ・アッラ・サピエンツァの、つまり巨匠ボロミーニの設計した鐘楼の頂上を『占拠』するということは、建築を目指す彼らにとっては、きわめてシンボリックなことだった。3日間も粘った、ボロミーニの鐘楼の頂上の『占拠』は、僕にとってもとてもファンタスティックな経験だったよ」(DoppioZero インタビュー)

 

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当時、聖イーヴォ・アッラ・サピエンツァ、ボロミーニの鐘楼を『占拠』した、建築科の学生グループ『Uccelli』。この時代、過激なことを企てるグループとして、学生たちの間では、一目置かれていた。

 

その時代から約50年が経ち、社会は大きく流れ、人々の風潮が変わっても、若き日のカレッラが友人たちと企てた文化的、あるいはシンボリックな『占拠』に似た抗議が、ローマでは今でもたびたび見られます。そしてその『占拠』を企てるのは、もちろんカレッラの生きた時代を知らない若い世代。何よりもまず、日本人のわたしにしてみれば、60年〜70年代の精神がいまだに脈々と受け継がれていることに驚きますが、ローマという都市、そしてそこに住む人々は、社会的にも、人間的にも、基本的にルールを嫌う傾向にある。世界の変化とともに、ローマの社会情勢も少しづつ窮屈に変化を遂げてはいても、いまだ隙間、というか、社会の緩みを大目に見るおおらかさがあり、このいい加減さをわたしは好ましく思っています。

Beat72、ここからアヴァンギャルドの大きな伝説がはじまった

『ディオニソス』で活動すると同時に、シアターの仲間たちと街角でパフォーマンスを企てたり、アカデミア(芸術大学)の学生たちとも交流しながら、カレッラはやがて、イタリアの60年、70年を代表するアーティスト(Pino Pascali, Jannis Kounellis, Gino De Dominicis e Luigi Ontaniら)を多く輩出した伝説のギャラリー、L’attico(ラッティコ)に通うようになります。

当時、創設者の息子、ファビオ・サルジェンティーニが運営していたラッティコは、ニューヨークのアートシーンとローマを結ぶ「架け橋」としても名高く、世界中の視覚芸術の作家だけでなく、音楽家、舞踏家、建築家など、当時頭角を現しはじめたアヴァンギャルドなアーティストたちが行き交い、多くの大がかりな展覧会、フェスティバルが開催されていました。このギャラリー・ラッティコを核に、戦後のローマのアートシーンが最も輝いた時代が形成されたとも言える。そして、そのローマに生まれた新しいアートの潮流はほとんど、ラッティコで意気投合したサルジェンティーニとカレッラのコラボレーションから生まれています。

カレッラは、当時若干23歳。1970年にはフィリップ・グラススティーブ・ライヒ、シャルルマーニュ・パレスティーネ、トリシャ・ブラウン、デボラ・ヘイ、スティーブ・パクストン、イヴォンヌ・レイナーらを招き、ギャラリー・ラッティコを舞台に音楽、舞踏の大がかりなフェスティバルを開催。カレッラはラッティコを通じて、その後長きに渡って親交を深めていくことになる、ラ・モンテ・ヤング、テリー・リレイなどの現代音楽を代表するミュージシャン、イタリアの新進アーティストたちとも知り合っている。

さらにシモーネ・カレッラの勢いに拍車をかけたのが、当時ギャラリー・ラッティコと並行して存在したTeatro Beat72との出会いです。アヴァンギャルド・シアターのシンボルともなったこのスペースは、ローマ・プラーティ地区にあるVia Giuseppe Gioacchino Belli 72 (まさに2001年、テアトロ・インディアで演じられた『Peppe er Tosto』にちなんだ詩人の名を冠した通り)に若干22歳のウリッセ・ベネデッティとフルヴィオ・セルヴァデイが開いた、「Piper(当時、ローマで有名だったドルチェヴィータなディスコ)に行くお金のない若者が、ウィークエンドに踊りに来れるアルタナティブ・ディスコ」として1964/65年にオープンした、いわば、それまでストリートでうだうだ過ごしていた若者たちの週末の「たまり場」。ウィークエンド以外には予定が入っていないその「たまり場」に、やがて自分たちの作品を発表する場所を探しているがまったくお金がない、しかし爆発しそうな野心を胸に秘めたアーティストたちが、芝居やコンサート、展覧会、フェスティバルを提案しはじめ、みるみるうちにアヴァンギャルド、ポストアヴァンギャルドーローマの演劇、音楽、映画、文学の発信地へと成長していきます。

 

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センチメンタル・ジャーニーのさらなる向こうへ。1976年 Teatro Beat72 (Doppiozeroより)

 

たとえばコリエレ・デッラ・セーラ紙はBeat72のことを「アヴァンギャルドのシアターとしてローマで最も重要な(いや、イタリアで最も重要な)場所」と書いている。初期にはカルメロ・ベーネという現代イタリア演劇を代表する役者が貸し切り、中盤から後半には、ロベルト・ベニーニなど数え切れないほどの重要な演劇人が、このBeat72のアクティビティから世に出ています。マリオ・マルトーネも70年代後半、Beat72に通うためにナポリからローマへ居を移したほどです。

シモーネ・カレッラもまた、ギャラリー・ラッティコで友人になったミュージシャンたちとともに、1970年あたりからこの場所に通うようになり、自らのパフォーマンスを発表するとともに、スペースをオーガナイズするようになりました。やがて「アヴァンギャルドのアイデアから発生したパフォーマンス、ハプニング、カルチャープロジェクト、演劇だけでなく、音楽、詩などの現代アートシーンで、最もイタリアが幸福に満ち、最高のエネルギーに満ちたBeat72の季節(ラ・レプッブリカ紙)」が訪れた。この時代のイタリアは本格的に『鉛の時代』に突入、国内のあちらこちらで大規模テロが頻発、普通の学生が武装し、警察と労働者が衝突、澄み渡った青空に銃声が響くという大混乱の時期。同時期にひたひたと潮が満ちるように、ローマでは「シモーネ・カレッラの芝居を見ることができた世代は幸運(コリエレ紙)」と表現されるアヴァンギャルド・ムーブメントが起こっていたわけです。

もちろん、わたしはこのBeat72を知りません。したがってどのような場所だったのか、まったく想像もできませんが、ギャラリー・ラッティコのファビオ・サルジェンティーニの娘、現在映画監督のファビアーナ・サルジェンティーニが次のように描写していて、なかなか凄みがある、散歩がてらには行けなさそうな場所であったには違いありません。

「Beatで起こることには、聖なること、ひどく俗っぽいこと、志が高いこと、ひどく低いこと、洗練されたこと、下品なこと、それらすべてがごちゃごちゃに混ざっていた。しかしわたしはその状況にすっかり慣れてもいた。すべてがアートなんだ。時にそれがただのゴミのように見えたとしても、それはアートだ」「時々は、Beatに通う人々の(もちろんラッティコに通う人々もだが)ぞっとするように忌まわしい、歪んだ顔にビクッとすることもあった。しかし、ここにはどんな人々もまぜこぜにやってきていたのだ。ドラッグでぶっ飛んだ人もいれば、ぐでんぐでんに酔っ払った輩もいたし、破壊も創造も、稲妻もきらめきもすべてがそこを通り過ぎていった」

 

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Teatro Beat 72(Doppiozeroより)

 

イタリア、詩人のウッドストック、カステル・ポルツィアーノ

『鉛の時代』ローマ’70を変えたニコリーニという項でも触れましたが、『鉛の時代』の真っ只中に、ローマでは、市がバックアップして、突如として明るいカルチャー・ムーブメントが生まれ、テロリズムと同時進行するという突飛な時代が訪れます。時のイタリア共産党のローマ市長Giulio Carlo Argan(ジュリオ・カルロ・アルガン)、Luigi Pietroselli (ルイジ・ピエトロセッリ)の文化評議員として抜擢された建築家レナート・二コリーニが企画したEstate Romana(ローマの夏)ーインテリゲンチャ文化と大衆文化をミックスした大がかりなイベントーに、街じゅうの厳重な警戒とテロの恐怖で家に閉じこもっていた人々が、再び街に繰り出すようになったのです。この動きは、武装による血まみれの『革命』と陰謀に魅入られた暗い時代に対抗するように生まれた、文化と街を人々に開放する、いわば明るい『革命』だったとも言えるかもしれません。

エスターテ・ロマーナの、遺跡の一角マッセンツィオ教会で企画された映画の上映には4000人もの人が集まり、プラーティ地区のストリート・パフォーマンスにも人が溢れかえった。レナート・ニコリーニはローマの街の広場や遺跡、通りを、老いも若きも、誰もが平等に自由に行き来できるオープンシアター、あるいはソーシャル・シアターに見立て、新しい文化の流れを生み出し、現在でも多くの人々にモデルとされる建築家です。そしてなにより彼の名を、欧州じゅうに轟かせるきっかけとなったのが、Beat72のメンバー、すなわちシモーネ・カレッラ、ウリッセ・ベネデッティらとニコリーニがタッグを組み、1979年、カステル・ポルツィアーノで世界中から総勢104人の詩人を招いて開催した『詩のフェスティバル』でしょう。このフェスティバルは、イタリアのウッドストックとも呼ばれ、今でもボブ・ディラン世代の語り草となっています。

 

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人、人、人。若者たちで埋まった「詩のフェスティバル」」。オースティア、カステル・ポルツィアーノの海岸。

 

招かれた詩人のうち、90人は海外からの参加。その頃一大ブームを巻き起こしていたビートジェネレーションの大御所、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、ジョン・ジョルノ、ローレンス・ファーリングヘッティ、レロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)、エフゲニー・エフトゥシェンコを一堂に介し、さらにダッチャ・マライーニ、ヴァレンティーノ・ザイケンをはじめとするローマの詩人たちが参加。観客からも「俺にもやらせろ」「私にも」と次から次に飛び入りが乱入、議論が始まり、喧嘩が起こり、「パティ・スミスが来るって言うから来たのに、詩なんてどうでもいいんだ」とわめく子がマイクを奪ったり、裸で走りまわる者たちも現れ、3日3晩、夏の海辺に詩人と観客が入り乱れて熱狂的なステージが繰り広げられたそうです。

最後の晩には詩人、観衆一丸となり宇宙音、「オーム」を大合唱している際、ステージそのものがガラガラと海に崩れ落ちて、ビートニク詩人もローマの詩人も観衆もずぶ濡れ、砂だらけになる、というハプニングも起こっている。その時の観衆は3日間で7000人、いや10000人集まった、とも言われます。『詩』でこれだけの人が集まるなんて、現在では、まずありえない現象。当時のビートニク人気の凄まじさもさることながら、あちらこちらからジョイントが回ってくる、行き当たりばったりの節操のないイベントをローマ市がバックアップしたこと、そのおおらかさにも驚きます。ちなみに、カステル・ポルツィアーノあたりはフェスティバルの4年前に、ピエール・パオロ・パソリーニが虐殺されたシンボリックな場所でもあります。

「二度と繰り返すことが不可能な異常な熱気と興奮に包まれたカステル・ポルツィアーノの、この『詩のフェスティバル』こそが、イタリアの演劇、詩、さらにはパフォーマーと観客との壁を取り去り、フェスティバル、イベントのコンセプトを根本から変えた」(ラ・レプッブリカ紙)。

 

※Raiが放映したカステル・ポルツィアーノのフェスティバルのニュース。レロイ・ジョーンズの朗読はまるでラップ。ギンズバーグも歌う砂浜。

 

シモーネ・カレッラ・フォー・エヴェー

「何より常に紳士的で優しく、私たちのマエストロのひとりとして、ローマの演劇界のモデルとなる人物だった。シモーネとともに、テアトロ・インディアに、ローマのさまざまな時代の演劇史や主人公を樹に見立て、巨大なフレスコ画を描くというプロジェクトを進めていた矢先のことだった。われわれは彼の、そのプロジェクトを実現したいと願っている。何よりそれを、イタリアの現代演劇史に重要な作品を残したカレッラへのオマージュにしたいと考えているところだ」

ローマ演劇協会のアントニオ・カルビは、カレッラへの追悼として以上のようなコメントを残しています。また、カレッラと密な交流のあったマリオ・マルトーネは、次のような記事を書きました(意訳)。

日曜の夜、僕はボルゲーゼ公園のちいさい湖で開催されたAlvin Curran(アルヴィン・クラン)のコンサートに来ていた。それぞれの船には4人のミュージシャンと船頭が乗っていて、音楽が水の上を動き、その場にいた観客は、日常から離れた魔法的な時間にすっかり惑わされ、衝撃を受けたんだ。

シアターのような街、剥き出しになった心、メンタルのようなシアター。これがシモーネ・カレッラの真髄だ。おとといのこと、アルヴィンがシモーネを病院に訪ねた時、シモーネは指を浮かせて、鍵盤に触れるような仕草をし、そして、それがおしまいだった。そのあとシモーネは少しづつ、今、彼がいる神秘の世界、僕らが彼とは二度とは出会えないところへと遠ざかっていった。

40年前、僕は毎日Beat72に出かけ、その僕をシモーネがいつも出迎えてくれた。僕はまだ16歳の少年で、学校が終わるとすぐに電車に飛び乗って、ナポリからローマへやってきていた。その頃のBeatは、シモーネが『la nascità del teatro – 劇場の誕生』をオーガナイズしていた頃で、僕は『Autodiffamazione-自分で自分を誹謗する』『Iperurania-イデアの世界』『Marina』とともに、いまでは神話ともなっているそれらのパフォーマンスのアシスタントをしていた。シモーネはたくさんのアーティストたちに場を提供し、その中には、Giorgio barberto Corsetti(ジョルジョ・バルベルト・コルセッティ)やFederico Tiezzi(フェデリコ・ティエッツィ)のように有名になった者もいるが、いずれにしてもそこに通っている人々は誰もが皆、素晴らしかった。夜、ナポリに帰る時は、いつもなんとも言えない感情で胸がいっぱいで、テアトロというものが、本当に僕の中で生まれはじめるのを感じてもいた。そしてそれは、観客と演じる者の集合、一体、スペースとの関係性という、僕が今まで忘れたことのない、ひとつのモデルともなった。

イメージ通りに素早く演出し、動きを決定する。シモーネが仕切るアーティストたちは大勢いて、シモーネの義兄弟とでもいえる彼らは僕と同じように、シモーネの演出の仕方をすべてを瞬時に了解し、すべてはいつもそこからはじまった。

それは、他とは全く違う、信じられないような方法の、ローマへの一撃だった。真の意味でのゲリラ的なアート、その精神は、今のローマでも脈々と生き続けるものだ。

テアトロ・インディアという劇場も、ある種、彼のアイデアから創造されたものだということができる。シモーネのゲリラ的な芝居に参加しなければ、僕にはこの感覚を把握することができなかったと思う。数ヶ月間、政治と役人仕事に素早く、執拗に働きかけて、「現実と詩」が同時に存在するというヴィジョンをそのまま活かすことに、僕は成功した。「現実としての詩」という彼のその、独特な視線を、誰もが知っていたと思う。

シモーネとともに僕を出迎えてくれたウリッセ・べネデッティやBeat72の父親的存在だったジョゼッペ・バルトルッチ(美術評論家)にとっても、シモーネは偉大なミッショナーだった。またシモーネとともにタッグを組んで、2度と繰り返すことのできない大がかりなイベントを企てたレナート・ニコリーニにとってもまたそうだったのだと思う。

僕らは、それこそが『革命』だと夢見た、素早く、しかし真の、流星に触れることができたということを感じている。シモーネが多くのプロジェクトを抱え、終わることなく仕事に携わっていたことも知っているし、それは驚くべきことでもない。

彼が生きた時間は、もちろん歴史的なアヴァンギャルド・アーティストたちの時代だが、ある意味、その精神は永遠ともいえるものだ。シモーネのような人間は「生きた」のではなく、「創造した」のだ。彼の死というものは、ほんの詳細でしかない。シモーネは常に生きているのだから。

2度と繰り返すことのできない経験、彼のヴィジョンでは、その『詩』こそが現実だったんだ。

テアトロ・インディアで開かれた「お別れの会」に参加したファビアーナ・サルジェンティーニがシモーネ・カレッラの娘、エレクトラ(ほとんどの人がカレッラに娘がいることを知りませんでした)が、父親と最後に交わした会話を書いています。

「シモーネ、どうしよう。何をしたらいい?」
「革命!」
「でも、どこから始めたらいいの」

「終わりからだよ」

夏の名残の陽差しが剥き出しの壁に遮られ、石が混ざる赤土の上に黒々とした影が落ちる。描かれたような陰影が刻まれたテアトロ・インディアのオープン・スペースで、シモーネ・カレッラの「お別れの会」は開かれました。青い空、白い雲、無言で立ち尽くす数人の紳士、シモーネの写真に見入るサングラスの女性、ひそやかな話し声、涙、抱擁、テヴェレから吹き上がる風と木々のざわめき。すぐそこにItalgasのインプラントの鉄骨がくっきりと浮かび上がっている。毛糸の帽子をかぶって「やあ、やあ」と現れるシモーネの、いつもの笑顔だけが思い出されました。

 

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シモーネ・カレッラとアレン・ギンズバーグ。

 

※この項を書いている際、史上、最も陽気なノーベル文学賞受賞者と言われる、強烈な風刺を賑やかな笑いでくるんで、イタリアの人々に喜びを与え続けた偉大な演劇人、語り部、画家、政治活動家であるダリオ・フォーの訃報が飛び込んできました。流星が消え、太陽が消え、イタリアは本当に寂しくなります。

 

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