『鉛の時代』 イタリアの知の集積 フェルトリネッリ出版と『赤い旅団』の深い関係

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ジャンジャコモ・フェルトリネッリとの親密な交流

急激に存在感を増した、その『赤い旅団』に興味を持って近づいてきたのが、70年当時、武装パルチザングループ『GAP』を結成したばかりのフェルトリネッリ出版の創始者、ジャンジャコモ・フェルトリネッリでした。その頃のフェルトリネッリは、学生や労働者たちに、過激な革命思想を吹き込むインテリ扇動者として、長きに渡り当局にマークされる人物でもありました。

さて、はじめて『赤い旅団』の名前が公共の電波に流れたのは70年、4月16日のことです。ジェノバ、トリノ、ミラノで、20時33分に放映されたテレビニュースの音声が、突如としてジャックされ、次のようなアナウンスが放送されたそうです。(共和国の夜・La Notte della Repubblica/セルジォ・ザヴォリより)。

 

アテンション。アテンション。今、君たちに向かって話しているのはGAPである。危険だから近づかないように。新しい、大規模なレジスタンスが誕生したことを告げる。それは労働者たちの資本家への反乱、国家への反乱、外国の帝国主義への反乱、人民の反乱であり、南イタリアの労働者たちの反乱である。社会の再構築、共産主義によるプロレタリアートの永遠の解放、イタリアの労働者たちの解放、長い戦争であるイタリア資本と海外資本による占領からの解放を目指して『赤い旅団』は誕生し、そしてGAPが再生した。パルチザンの旅団員たち、労働者たち、共鳴者たち、そして革命闘士である学生たちは、これからひとつとなって勝利に向かって突き進んで行くだろう。

 

今のイタリアでは到底考えられない、こんな電波ジャックを企てたのが、ジャンジャコモ・フェルトリネッリでした。「この書店の創始者は、インテリな過激分子だったのだ」、というようなことを考えながら、2018年のモダンでクリーンなフェルトリネッリ書店を巡ると、感慨深いものがありますが、現代イタリアの奥行きの深さ、社会心理の複雑さは、このような人物たちの存在が、いまだに社会に影響を与え続けているからかもしれない、という感触をも覚えます。

セルジォ・サヴォリの『共和国の夜』、さらにフェルトリネッリ出版の公式ホームページによると、フェルトリネッリは1970年の時点で47歳でした。広大な森林を所有し、代々材木商を営んできたという由来を持つフェルトリネッリ家は、イタリア屈指の富豪であり、ジャンジャコモの父親はクレディト・イタリアーノ、さらにエディソンという、イタリアの当時の金融と電力、ガス会社を代表する大企業の総帥でもあった。ジャンジャコモ本人はパルチザンとしてファシスト政権へのレジスタンス運動に参加。初期はイタリア社会党に所属していましたが、1947年にイタリア共産党へ移党しています。

1950年には、民主主義、労働者の抗議活動の歴史を研究するインスティチュートを創立。やがて、そのインスティテュートが国際的な研究センターとして権威ある存在へと発展し、フェルトリネッリの名を不動のものにしました。

いずれにしても、移党したイタリア共産党との関係は、はじめからあまり良好とは言えないもので、当時の党の知識人たちは、フェルトリネッリに反逆的な過激主義という烙印を押し、仲裁役のできない、金満家の党員として常に批判にさらされてもいた。彼はおおらかで気前はいいが、何事にも極端に熱中しやすく、創造力に満ち溢れてはいても、野心そのものが混乱しているような人物だったと評価されてもいます。しかし時代が必要とする書籍を掘り起こす天才的な勘を持った人物であったことは確かであり、イタリア出版界に大きな功績を残してもいる。また、大富豪の出版社であり、インテリの革命家、という稀有なキャラクターは、まるで小説のようでロマンに満ち、「イタリアにこんな人物が存在していたとは」と感嘆すらします。

イタリア共産党との不協和音は、出版社を創立し、やがてイタリア中に書店チェーンを開いた頃から決定的になっていきました。のちに世界的ベストセラーとなったボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバゴの版権を単独獲得し、世界に先駆けていち早く刊行。その際はモスクワから大きく批判され、そのころまだソ連と強い絆を持っていたイタリア共産党幹部からも、手厳しく批判されたうえに不買運動まで起こされている。結局フェルトリネッリは1958年にイタリア共産党を離党。『ドクトル・ジバコ』刊行の翌年、ボリス・パステルナークはノーベル文学賞を受賞しましたが、モスクワの圧力で受賞を辞退する顛末となっています。

出版社としてのフェルトリネッリは当時、『ドクトル・ジバゴ』のみならず、トマーゾ・ディ・ランペドゥーサの『山猫』など、後世に残る優れた書籍の版権を得て、続々と刊行しました。1958年には、ジャンジャコモ亡き後、その跡を引き継ぎ、フェルトリネッリ出版を大書店に育てた生涯のパートナー、ジャーナリスト及びカメラマンでもあるインゲ・ショエンタール(インゲ・フェルトリネッリ)に出会っている。いずれにしてもフェルトリネッリ出版は、彼の慧眼と人柄で、日を追ううちにミラノの文化のセンターに変貌し、世界に名を轟かす作家、思想家たちのサロンともなりました。

イタリア共産党を離れた後のフェルトリネッリは、疲れを知らない旅人として、「理想的な革命モデル」を求め、中東、中国、東ヨーロッパ、キューバをはじめとするラテンアメリカ、と世界中をリサーチ、革命世界の要人と交流した。1964年から67年の間には、欧州の武装革命グループたちが魅了されたフィデル・カストロ、チェ・ゲバラとも知古を得ています。

その後は、南米の革命戦士たちのテクニックをまとめた『Tupamaro(トゥパマロ)』を刊行。カストロの信頼を得て、カストロ本人、チェ・ゲバラ関連の書籍の版権を一任され、ゲバラの『ボリビア日記』『戦士、チェ・ゲバラ」などゲバラ関連の書籍、カトリック僧戦士『Camilo Torres (カミーロ・トレス)』なども次々に出版。その頃フェルトリネッリが出版した書籍もまた、ベストセラーになり、1968年には自ら『ギリシャの後のイタリア、クーデターの危機』などを執筆出版し、当時の極左グループの『武装マニュアル』ともなっています。のち発覚した『赤い旅団』の各ベースには、フェルトリネッリの出版物が少なくとも一冊は置いてあったそうです。

「フェルトリネッリは出版社ではなく、むしろ革命の扇動者でしかなく、フェルトリネッリの裕福な生活は本質的な『革命』とはなじまない!」とイタリア共産党からは激しく糾弾されましたが、フェルトリネッリは、「批判という武器から、武器という批判へと変遷したのだ」とマルクスの言葉を引用し、答えています。

 

※1968年にルキーノ・ヴィスコンティに映画化された、トマーゾ・ディ・ランペドゥーサの『山猫』Gattopardo。

 

さて、そのジャコモ・フェルトリネッリと『赤い旅団』との交流は、ジョバンニ・ファサネッラによるアルベルト・フランチェスキーニのインタビュー、『Che cosa sono le BR (『赤い旅団』とはなんだったのか)』にも詳細が書かれています。

その頃、存在していた複数の極左グループは、Lotta Continua(継続する闘い)、Potere Operaio(労働者の力)、Il Manifesto(マニフェスト)と、いずれのグループもフェルトリネッリから支援、資金援助を受けていた。また、フェルトリネッリが率いるGAPは、『赤い旅団』のレナート・クルチョ、フランチェスキーニと、共同で武装闘争を進めることに合意、1971年4月からは、『新しいレジスタンス』という雑誌を発行しはじめ、執筆、編集ともにフェストリネッリが行なっていたそうです。

フランチェスキーニによると、フェルトリネッリが構成したGAPという武装ブループは、他の極左グループと比べると、かなり異質で、構成員がどのようにリクルートされたかは、フランチェスキーニにも良く分からなかったと言います。ほとんどの構成メンバーは確固としたイデオロギーを持っていないように見え、唯一明確な人物は、元『ガリバルディ旅団』のジョバンニ・バッティスタ・ラザーニャだけでした。このラザーニャという人物は、パルチザンとして活躍した有名な人物で、当時のテレビ番組でインタビューされている映像が、いくつか残っています。

いずれにしても『赤い旅団』は、他の極左グループとは競合せず、連帯することを重要視、『労働者の力』、『継続する闘争』と共にアクションを起こすこともあり、アントニオ・ネグリとも76年ぐらいまでは連絡を取り合っていた。したがってGAPとの連帯も『赤い旅団』にとっては、まったく不自然な動きではありませんでした。フェルトリネッリは来たるべく『革命』の時に、ともに核となる存在として、『赤い旅団』と密な連帯を求めてきたのです。

世界を駆け巡る革命戦士『オズワルド』

誰もが、彼が絶対的にフェルトリネッリだと知っていたにも関わらず、他の革命家たちと接触する際は、必ず『オズワルド』と名乗り、フェルトリネッリは決して本名を明かさなかったと言います。『赤い旅団』との接触は、そもそもレナート・クルチョが『オズワルド』のことをトレントでの学生時代からよく知っていたことに加え、フランチェスキーニがレッジョ・エミリア時代に仲間たちと共同生活していたころ、弁護士を通じて間接的に青年たちを援助し、彼らの動きを背後で追っていたという経緯があります。またCPM時代は武装集団形成のため、ヴァンニ・ムリナリスを通じて、クルチョとともに、件のコラード・シミオーニとも何回か会ったこともあるそうです。

『革命』のスタイルについていえば、レナート・クルチョが、都会的なメトロポリタン『革命』闘争を目指したのに対して、フェルトリネッリの『革命』のイメージは、かつてのパルチザンのレジスタンスのように野山を駆け巡って攻めるスタイルで、レッジョ・エミリアのパルチザン文化のなかで育ったフランチェスキーニには馴染みのある考え方でもあり、共感もしています。共産主義パルチザンたちにとっては、イタリアの終戦記念日の4月25日は、単なる停戦のメモリアルデーにしか過ぎず、フェルトリネッリにとっても、未だ闘いは終わっていなかった。なにより社会が一気に騒乱へ向かい、緊急を要する事態となっていました。

シミオーニと決別しCPMを解散したあとのクルチョ、フランチェスキーニは、1ヶ月に1度の割合で、『オズワルド』に会っていたそうです。火曜日の夜8時、と時間を決めて、カステッロ・スフォルツェスコの公園のベンチで待ち合わせをし、『オズワルド』がもし来なければ、次の週にまた行ってみる、という会い方で、普段は互いに知らないふりをしていた。なるほど、秘密裏に動く革命家同士は、電話では盗聴の心配があるため、カジュアルに連絡し合うことはありえないことなのでしょう。

『オズワルド』は、1969年、12月に起こった『フォンターナ広場爆発事件』以来、Clandestino(偽の身分証明書で、正体を隠して活動:しかし彼がフェルトリネッリであることは、周囲の誰もが知っていたわけですが)となり、ファシストたち(軍部、軍部諜報、CIAなど国際諜報、極右グループを含み)がただちに起こすであろうクーデターをしきりに心配していたと言います。事実、『フォンターナ広場爆破事件』では、主犯とされる極右グループ及び国内外の諜報たちが目的とした『緊急事態宣言』は、ルモール首相の英断で発動されることはありませんでしたが、いつ何が起こってもおかしくない緊張が、社会を覆いはじめていました。

1970年の5月には、『フォンターナ広場事件』の捜査がアナーキストの犯行という、『真実』とはかけ離れた方向へと向かい、極右グループの関与が公にはなっていない時点で、弁護士と数人のジャーナリストが匿名で『La strage di Stato( 国家の虐殺)controinchiesta (カウンター捜査)』という書籍を出版。すでにグラディオの一環であるイタリアにおける『緊張作戦』を把握し、その危険を警告、当時の極左グループの誰もが、イタリアが軍部のクーデターの危機に晒されていることを知っていた。

ところで、クルチョとフランチェスキーニが『オズワルド』に何度か会ううちに、『赤い旅団』が発行していた雑誌の資金源を、それとなく聞かれたそうです。青年たちが即座に『強盗している』と答えると、「金はわたしが出すので、もう強盗をする必要はないよ」と『オズワルド』は資金援助を申し出ています。実際『オズワルド』は大変な金持ちで、いつも気前よく資金援助をしてくれたと言います。とはいえ、かた苦しい主従の関係はなく、ミーティングが終わると、『オズワルド』と青年たちは、どこにでもあるような近所のオステリアに繰り出し、互いに冗談を言い合う親密な関係を築いていました。しかもそのオステリアでは、友達同士、必ず割勘にする習慣となっていて、フランチェスキーニもクルチョも『オズワルド』を仲間だと信頼し、ほぼ自由に、なんでも話していました。

そのころの『オズワルド』は、度重なる旅で、すでにソ連、東欧諸国、南米と深い関係を築き、キューバやプラハに家を持つインターナショナルな人物で、ことあるごとに「東欧と協力しなければ革命は成功しない」と強調していましたが、『赤い旅団』としては、プラハの社会システムを受け入れるのは難しいのではないか、と逡巡もしています。フランチェスキーニは、ひょっとすると『オズワルド』は東欧のスパイかもしれない、とも考えたこともありましたが、スパイにしては知性がありすぎる、とその疑いを何度か打ち消してもいる。

フェルトリネッリはイタリアで最も質の高い出版社を持ち、『ドクトル・ジバコ』を世界に紹介し、ボリス・パルテルナークにノーベル文学賞を受賞させるほどの影響力を持つ、世界の文化に精通したインテリでした。その時代の『赤い旅団』はインターナショナルな連帯を何ひとつ持っていなかったので、『オズワルド』が『赤い旅団』の青年たちにとっての「世界との架け橋」であり、青年たちはいつか彼が『赤い旅団』に参入してくれることを信じてもいた。フランチェスキーニは、『オズワルド』がイタリア社会に思想的影響を与えるために東欧と連帯したエージェントだった可能性を完全に打ち消すことはできなくても、『オズワルド』のことが大好きで、信頼しきっていたと言います。

フェルトリネッリが『赤い旅団』と密に接触していたこの時期は、マリオ・モレッティが何人かの仲間たちとふらりと舞い戻ってきた時期と重なりますが、モレッティはフェルトリネッリについては、何ひとつ語っていません。もちろんこの時期は執行幹部ではなく、メンバーのひとりとして周辺にいたにすぎず、実際にはフェルトリネッリに会ったことはなかったのかもしれない。したがってモレッティは、パルチザングループGAPの『オズワルド』からは何の影響も受けていないのかもしれません。

 

※数少ないテレビ出演から。ジャンジャコモ・フィルトリネッリ。政治のレベルからも急進的に、人々がもっと本を読む時間ができるようにしければならない、と力説。

 

1972年、その後を決定する初の誘拐事件とフェルトリネッリの死

1972年は『赤い旅団』にとって、非常にデリケートな転換を迎えた1年となりました。

その後、『誘拐』というイメージが焼きつくことになる『赤い旅団』ですが、はじめての誘拐事件を1972年3月3日に起こしていますマリオ・モレッティが技術者として働いていた大手通信会社シット・シーメンスの幹部、イダルゴ・マッキアニーニを誘拐したのがはじめての犯行で、その際は「morde e lascia (ちょっと噛んで離す)」、という数時間の拘束に終わっています。それでもマッキアニーニの頭部にピストルを突きつけたショッキングなポラロイド写真を公表したことで、プロパガンダとしてはおおいに成功し、あらゆる新聞が注目、『赤い旅団』の存在をさらに印象づけることになりました。

その誘拐事件が起こった際、フェルトリネッリはちょうど体調を崩し、オーストリアのお城で療養をしている最中でしたが、事件を知って「いよいよ革命の時が来た」と急いでイタリアへ舞い戻っています。『オズワルド』は、今まさに『革命』が起ころうとしていると考え、ただじっとそれを見ていることは、どうにも我慢ができなかったのでしょう。

事故(?)が起こったのは、1972年の3月14日のことでした。ミラノの近郊にあるセグラーテの高圧線付近で爆死したひとりの男の死体が発見された。その死体が身につけていた身分証明書には「ヴィンチェンツォ・マッジョーニ」と記されていましたが、それはフェルトリネッリが正体を隠すために持ち歩いていた偽の身分証明書で、間もなく、その死体がジャンジャコモ・フェルトリネッリであることがインゲ・フェルトリネッリ以前のパートナーだった女性により確認されています。

なお、その時セグラーテに駆けつけたのは、奇しくも『フォンターナ広場爆破事故』の際の捜査責任者で、重要参考人として取り調べ中のジゥゼッぺ・ピネッリの警察建造物からの落下死に関して、『継続する闘争』から殺人者として糾弾されていたルイジ・カラブレージでした。そしてそのルイジ・カラブレージもまた、それから2ヶ月も経たない5月に、自宅前で殺害されることになります(余談ですが、カラブレージのご子息、マリオ・カラブレージは、現在ラ・レプッブリカ紙の主幹です)。

カラブレージ殺害に関しては『継続する闘争』のリーダー、アドリアーノ・ソフリが主犯とされ、ソフリは無実を訴えながらも2012年まで収監され、真実は未だ謎に包まれたまま、現在は自由の身となっていますが、殺害当時のカラブレージは、『フォンターナ広場事件』の犯人たちとされる極右グループたちの武器の供給元を捜査している最中だったそうです(フォンターナ広場の爆発に使われた爆薬はNATOが隠していた武器と一致しています)。

フェルトリネッリはその日、ミラノでイタリア共産党が、融和路線、ユーロコミュニズムを推進するベルリンゲルを書記長に任命することを知り、それを阻止するために中央高圧線を爆破、ミラノの大部分の地域の電源を中断させるブラックアウトを企てるためにセグラーデの高圧線に登った、ということになっています。そのための時限爆弾が予定より早く爆発し、設置する前に爆死したと見られている。捜査の結果、『事故死』と断定されましたが、『緊張作戦』の一環としての他殺説が根強く語られ、当時は仇敵のイタリア共産党までも、CIAの『陰謀説』を主張しています。

のち、捜査が入った『赤い旅団』のベースから、クルチョ、フランチェスキーニがセグラーデのフェルトリネッリ爆破事件を独自に調査した書類が押収され、その事故の最中に一緒にいたGAPのメンバーのひとり、ギュンターの証言を録音したテープが見つかっています。クルチョたちは『オズワルド』という大切な同志を失って、GAPのメンバーたちをかなり詳細に、執拗に調査をしていたようです。そしてその録音テープでもやはり、フェルトリネッリ自身が高圧線に登り、爆弾を仕掛けようとしていたところ、突然爆発が起こり、落下したことが語られています。

その後何年も経ったのち、レナート・クルチョをはじめとする数人の『赤い旅団』メンバー、及び、ラ・レプッブリカ紙創立者、エウジェニオ・スカルファロなどは、フェルトリネッリの死は武装プロパガンダアクションを起こそうとした際の『事故死ー戦死』と断定。クルチョは、GAPと『赤い旅団』は強く連帯する同志であった、と声明を出しました。

しかしながらフランチェスキーニは現在も、その死に疑惑を抱き続けている。フランチェスキーニは、その日『オズワルド』が使った爆弾に仕掛けるタイマーがそもそも性能が悪く、機能しない不良品であったことを指摘。かつてコラード・シミオーニが秘密裏にアテネのアメリカ大使館を爆破しようと女性テロリストを送った際、タイマーが機能せずに大使館を爆破する前に彼女が自爆してしまったものと、まったく同様の型のタイマーであったことがのちに明らかになったと語っている。また、インゲ・フェルトリネッリも、「ジャンジャコモはグラディオのことも、NATOが隠した武器のことも知っていた。国にとって、あまりにも不都合な人物だった」と『政治殺人』説を主張しています。

いずれにしても、フェルトリネッリの死には『赤い旅団』だけではなく、『労動者の力』、『継続する闘争』『マニフェスト』も大きな衝撃を受け、混乱し、途方に暮れました。心理的な支柱を失った上、活動資金も武装のためのミトラ(軽機関銃)も全てフェルトリネッリからの援助だったので、どのグループも、まず一斉に資金難に陥った。マニフェストは、事故が起こったその日に資金3億リラを受け取る約束をしていたにも関わらず、その日セグラーテに向かってフェルトリネッリが運転していた小型トラックに積まれていたはずの3億リラは、どこを探しても見つかりませんでした。

また、フェルトリネッリの死後、解散したGAPをフランチェスキーニが助け、ギュンターが鍵を持っていた、フェルトリネッリのスイスの金庫を開けたところ、パスポートと身分証明書以外は何もなく、お金もまったくない空っぽの状態だったそうです。

いずれにしても、国際的にも重要な出版社の創立者であったフェリトリネッリの死は、彼を支柱にしていた極左グループだけでなく、イタリアの社会全体に大きな衝撃を与え、ミラノにあるフェルトリネッリ家の壮大な邸宅でのお葬式には多くの人々が集まりました。そしてそのお葬式は途中から一変、『CIAは殺人者、ブルジョワは殺人者』というスローガンが響き渡る政治集会へと発展し、機動隊が大挙して警備する物々しい追悼となっています。

なお、GAPが解散した後、数人のGAPメンバーが『赤い旅団』へと移動していますが、72年は、GAPのメンバーだったマリオ・ピセッタ(トレント大学)という青年が、カラブレーゼ殺人事件を機に一斉に行われた極左グループ捜査で、新たな誘拐を計画していた『赤い旅団』の別のメンバーとともに逮捕されます。彼は逮捕されると同時に、ただちにSIDー軍諜報部に協力しはじめ、『赤い旅団』に関わっているメンバーの詳細を話していますが、のちにこのピセッタが、本当に改悛者であるのか、そもそもはじめから諜報協力者だったかが、議論の的ともなりました。フランチェスキーニは、このピセッタという青年を、GAPの時代からの軍部諜報SIDの潜入者ではなかったか、と見ています。この72年の一斉捜査には、不可解な動きがいくつもあり、後述するつもりです。

 

※ マルコ・ベロッキオ監督1972年の作品、 Sbatti il mostro in Prima pagina (1ページ目に怪物をぶつけろ)

マリオ・モレッティの帰還と『赤い旅団』の変化

71年のピレッリのトラック爆破プロパガンダで、一気に『革命』シーンに躍り出た『赤い旅団』には、フェルトリネッリだけではなく、さまざまな極左グループからコンタクトがありましたが、一旦は消えていたマリオ・モレッティが戻ってきたのも、ちょうどその時期と重なっています。クルチョをはじめとするメンバーは、モレッティが戻ってきた当初は不信を抱き、スパイではない、という証明をさせるために、モレッティに『強盗』を強制している。甘いといえば甘いのですが、彼らは軍諜報関係者ならば、社会倫理に反する強盗などするはずがない、と単純に考えていました。

ロッサーナ・ロッサンダによるモレッティのインタビューを読んでいると、自分の家族や労働者仲間への思いが迸る箇所がいくつかありますが、パルチザンや『赤い旅団』の初期執行部、クルチョやフランチェスキーニへの、たとえば友情や共感、仲間意識を表現するような発言は全くありません。むしろ、自らが執行幹部のひとりとなる72年から、真の『赤い旅団』の活動がはじまるのだ、とも断定している。ただ、マラ・カゴールにだけは特別な仲間意識を抱いていたようです。また、『赤い旅団』に舞い戻った際、スパイではない証明として『強盗』を強要されたとき、『Operaio non ruba(工場労働者は盗まない)』という倫理観からかなり躊躇したと、モレッティは語っています。強盗の際は、被害にあった銀行員よりも、自分たちの方がよほど恐怖に震えていた、とも言っている。

ともあれ、モレッティという人物の語りには、メリハリとなる情熱や興奮はあまり感じられず、淡々と実務的に、悪く言えばだらだらと話し続けるという印象を受けます。しかし決して『冷血』という印象ではなく、時折、強い自意識が見え隠れする。彼の動機には、クルチョやフランチェスキーニのような『思想』に裏付けられた『正義感』に突き動かされた、という側面は見受けられず、むしろ「彼らとは自分は違う」という意識が強いようにも思う。『赤い旅団』は、あくまで工場労働者の大規模な政治行動であり、それを率いたことを誇りに感じ、『モーロ事件』についても「ひとつの政治のあり方の実現」として、後悔する素振りは見せてはいません。

読み進むうちに、フランチェスキーニが「彼はスパイ以上の人間だ。心理レベルでは自らのことをレーニンだと思っていた」という意味が、インタビューからは、なんとなく浮き上がるようにも思います。モレッティは、グラディオー緊張作戦における『シークレット・サービスと緊密に繋がっていた』という疑いを払拭できない人物ですが、複雑な謀略の渦中にいながら、工場労働者の『クーデター』という政治行動で、国家を支配したい、権力機構を揺るがしたい、という野望もまた、彼の真実であったに違いないとは思います。

ともあれ、71年にモレッティが戻ってきてから、『赤い旅団』の暴力が次第にエスカレートした、とフランチェスキーニは指摘している。「いつまでもトラックを燃やすだけなのか」「もっと大きなことをする必要がある」と、モレッティはたびたびクルチョ、フランチェスキーニに進言し、モレッティが主となり計画した、前述のマッキアニーニの数時間の『誘拐』が成功したことを機に、執行幹部のひとりに昇格しています。

現在のフランチェスキーニは、マリオ・モレッティの背後にはコラード・シミオーニが存在する、と考えていますから、『赤い旅団』に マリオ・モレッティを通じて、再びシミオーニの力が及ぶようになると同時に、信頼していた大好きな『オズワルド』、ジャンジャコモ・フェルトリネッリを失って、目の見えない猫たちのような気持ちで、ひたすら仲間と議論を続けた、と回想しています。

 

To be continued (不定期に)

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