『鉛の時代』拳銃とパンと薔薇、’77ムーブメントと『赤い旅団』

Anni di piombo Deep Roma Occupazione Storia

77年の『市民戦争』、若者たちの騒乱はどのように発展したのか

連綿と続くテロ事件、オイルショックから極端に落ち込んだ経済、ワァルター・アラシア事件、ロッキード汚職事件の暴露。不穏に満ちた70年代を過ごした若者たちの革命マグマは、ここで遂に噴火することになった。グラディオ下のイタリアが、緊張作戦(Strategia della tensione)の真っ只中にあった時代です。

77年1月24日、『労働者のアウトノミー』の共鳴者による大規模な大学『占拠』がはじまったのは、シチリアのパレルモからでした。この『占拠』からトリノ、カイアリ、サッサリ、サレルノ、ボローニャ、フィレンツェ、パドヴァ、ピサと急激に波紋が広がり、イタリア中に学生たちの抗議活動が拡大していきます。

2月1日には70名のネオファシストグループが、『占拠』中のローマ大学サピエンツァの文学部になだれ込み、銃を乱射、爆弾を投げるという暴動を起こし、対抗して極左の学生たちも乱闘で応戦。この時ひとりの学生が、ネオファシストにピストルで頭を射抜かれ、重体に陥るという痛ましい事件が起こっている。そこに警察隊も加わったため、火炎瓶、石(石畳を剥がした)が飛び交い、爆弾が炸裂する騒乱が翌日まで続きました。この時点で、ネオファシストグループも極左グループ『労働者によるアウトノミー』も、共に挑発的なテロリストと当局に見なされ、イタリア共産党は学生たちの政治闘争と完全に袂を分かつことを確認しています。

時をおかず2月17日、イタリア共産党のシンボル、CGIL(労働組合)総長ルチアーノ・ラマが、後述する『メトロポリスのインディアンたち』、『労働者によるアウトノミー』が占拠するローマ大学サピエンツァに訪れ、「君たちはただちに『占拠』を終了し、勉学に戻るべきだ」と呼びかける集会を開きました。ところがラマが登壇した途端、占拠学生たちは大挙して棒を振り回し、暴動を起こしてラマの演説を妨害。

学生たちは、結局大学からルチアーノ・ラマの一団を追い出すことに成功し、今度は学生側が、イタリア共産党、労働組合を『』だと明確に認識している。大学の壁には「新しい警察(イタリア共産党、CGIL)は出て行け!ラマはチベットにいるものだ」というスローガンが貼られたそうです。

その後ローマでは、平和闘争である『フェミニスト』『メトロポリスのインディアンたち』と、武装派の『労働者によるアウトノミー』、そのほかの過激派との間で亀裂が生まれ、『武装による革命』か、『自由でクリエイティブな革命』か、方向性がまっぷたつに別れている。ボローニャでは、過激な学生運動の主導者が続々と逮捕されはじめました。

そして3月11日、学生たちを、さらに憤らせる決定的な事件が起こることになります。ボローニャの学生デモの最中、『継続する闘争』の共鳴者である学生、フランチェスコ・ラルッソがデモに参加していた最中、丸腰であったにも関わらず、背中に警官の銃弾を受け亡くなる、という事件が起こった。暴力的な衝突が繰り返された学生デモではあっても、警官が丸腰の学生を背中から打つ、という過剰な介入はそれまでに起こったことがなく、学生たちは当局による明らかな『挑発』と捉えた。その事件を知ったイタリア中の学生たちは怒り狂い、各地で抗議活動がはじまりました。

翌日3月12日からは、ラルッソ殺害事件を機に、ボローニャローマで大がかりな抗議集会が開かれ、狂乱する学生たちが持ち込んだ爆発物、投石、飛び交う銃弾で、街中が火の海になっています。この日ローマには、全国から10万人が集まったと言われ、学生たちによる街の『侵略』とも言える様相となり、その参加者からは150人が逮捕されることになりました。同日、トリノでは警官が極左武装グループ『プリマリネア』から銃殺されるという事件が起こり、ボローニャでは学生たちの情報源であり、議論の場として重要な役割を担ったインディペンデント・ラジオ、『ラジオ・アリーチェ』が強制退去となっています。

この騒乱を受け、14日には当時の内務相、フランチェスコ・コッシーガが、ボローニャ大学を占拠していた学生全てを強制退去、大学の門を閉ざす、という乱暴な措置を取り、学生たちをさらに怒り狂わせることになった。その数日後、歯止めが効かなくなった極左過激グループNAPが、ローマで警察官を殺害。

なお、時の内務省、コッシーガが強行した、このボローニャ大学閉鎖というアカデミックな場に当局が介入したことに関しては、フランス人を中心に知識人たちが声をあげ、『継続する闘争』の機関紙に署名を残す事態となっています。署名にはジャン・ポール・サルトル、ジル・ドゥールーズ、フェリックス・ガタリ、ロラン・バルト、シモーヌ・ド・ボーヴォワールなど錚々たる名が並び、毎年、休暇をとってローマを訪れるサルトルとボーヴォワールは、『継続する闘争』の若いジャーナリストたちのロング・インタビューを受け、イタリア共産党の方針を強く批判しました。

しかし大学が閉鎖されてもなお、学生たちの騒乱は一向に収まる気配はなかった。この時期、街中で繰り広げられるデモにおける、学生たちと当局の混乱は熾烈を極め、過激派でもない普通の学生、若者たちが、警官、カラビニエリに向かって銃口を向け発砲する事態にまで発展。学生を含む、警官、ジャーナリストら負傷者は膨大な数にのぼります。Youtubeで、その時代の大学教授などのインタビュー動画を見ると、たとえば500件近い暴行事件が起きたパドヴァでは、そのうち160件が若者たちによる襲撃事件で、日常的に脅迫、無言電話、嫌がらせが続き、「大学関係者たちは大変な緊張状態で毎日を過ごしていた」と怯えた様子で語っている。

 

※77年の記録フィルムとともに、舞台演出家であるファウスト・パラヴィディーノらが、ボローニャで起きたカラビニエリによるフランチェスコ・ラルッソ殺害を再現、伝説のインディペンデントのラジオ・アリーチェ強制退去の実況中継などを題材にしたショート・ムービー、『’77 ムーブメント』

 

このように、あまりに緊迫した状況が続いたため、コッシーガ内務相は、遂に「公共のスペースにおける一切のデモを禁じる」と通達しましたが、集会の権利は『民主主義』の基本だ、と火に油を注ぐ結果となりました。コッシーガがデモの禁止を通達した5月12日、『離婚』の合法化を議会へ持ち込み成功した『急進党』のマルコ・パンネッラは、『離婚』合法化3周年を記念して企画した集会を中止せず強行。ローマの心臓部にあるナボナ広場まで、平和的にデモ行進をしていた『急進党』の群衆に機動隊が大挙して攻め込み、デモ参加者たちと長時間の激しい衝突が続いた。その混乱のなか、フェミニストグループの19歳の学生、ジョルジャーナ・マーシが無抵抗のまま銃殺されることになります。

このジョルジャーナ・マーシ事件を、当局側は、ネオファシスト過激派の仕業と断定しましたが、「銃を打ったのは、間違いなく群衆に紛れていた私服警官である」と、長きに渡りパンネッラは主張し続けた。事実、セーターを着た青年が銃を手に、警察官と何やら話している証拠写真が捉えられながら、結局犯人は逮捕されることはなかったのです。この事件は『鉛の時代』において、学生たちの間にさらなる緊張を創出するため、軍部諜報に企てられた『挑発』の一環と見られています。

さらに、その2日後の5月14日にも、ミラノで大きな衝突が起こり、学生たちと当局が銃撃戦を起こしました。そしてこの時たまたま撮影された、まさにテロリスト、という姿勢で銃を構えるジゥゼッペ・メメオの写真が、『鉛の時代』のシンボルとして後世に残ることになった。メメオは『労働者によるアウトノミー』の共鳴者であり、その後『武装プロレタリア共産党』へと加入。当初、この騒乱で銃弾を浴び死亡した警察官殺害の犯人と見なされましたが、のちに別の人物の犯行だったことが明らかになっています。

9月20日には、ローマで『継続する闘争』の、道でビラ配りをしていた学生、ウァルター・ロッシがネオファシストの銃弾に倒れている。この一件については、以前『永遠の革命家』としてインタビューをさせていただいたパオロ・グラッシーニの項に詳細を記しました。

以上のような経緯を経て、78年に起こった『アルド・モーロ誘拐・殺人事件』の前奏となる’77のムーブメントの核、『国家圧力と闘うための全国学生大会』が9月23日から25日の3日間、ボローニャで開かれることになった。この大会の間じゅう、イタリア全国から集まった10万人を超える学生たちが、市庁舎、大学、広場など街中を占拠、演劇やパフォーマンスで、平和的に抗議活動を繰り広げています。この集会には多くのアーティストたちが参加しましたが、のちにノーベル文学賞を受賞し、最近まで『5つ星運動』の強力な支持者であったダリオ・フォー、フランカ・ラメが参加していた事実は、注目すべきことです。

そして、そのボローニャの大集会で確認されたのが、学生たちによる『赤い旅団』の武装革命への共鳴だった、というわけです。「Rosse, Rosse, Rosse, Brigate Rosseー赤、赤、赤、赤い旅団』というシュプレヒコールを、集会の最終日に集まった何万人という学生は口々に叫び、『赤い旅団』による『国家との戦争』を支持。このように、学生たちが明らかに『赤い旅団』への共感を表明するのは、はじめてのことでした。

一方、77年の『赤い旅団』はといえば、影響力のあるジャーナリスト、ヴィットリオ・ブルーノ、イタリアで最も有名なジャーナリストだったインドロ・モンタネッリ、Raiのエミリオ・ロッシなど、ジャーナリストばかりを狙い、ふくらはぎに銃弾を打ち込む『ガンビザッツィオーネ』で重傷を追わせています。

2月にはミラノでカラビニエリ、リーノ・ゲディーニ、3月には警官ジウゼッペ・チオッタを殺害。4月には、予定されていたレナート・クルチョ、フランチェスキーニら『赤い旅団』創立幹部のはじめての公判を前に、弁護士フルヴィオ・クローチェを殺害して、公判を阻止している。

12月にはスタンパ紙の主幹、カルロ・カッサレンニョを殺害。76年の判事フランチェスコ・ココの殺害からタブーがなくなり (モレッティ談)、ターゲットを絞った攻撃が、際限なくエスカレートしていた。ボローニャの10万人の学生たちは、その凶暴化した『赤い旅団』に賛同、支持したというわけです (時系列:Wikipedia参考)

 

77年9月、ボローニャで開かれた集会に全国から集まった若者たち。doppiozero.comより引用

’77ムーブメントとふたつの魂

この’77のムーブメントはもちろん、68年に団結した学生と工場労働者で構成された、プロレタリアートの絶大な権力を誇る資本家たちとの階級闘争の流れを汲み、それがモデルともなっていますが、77年の極左運動の中核にいた青年たちは、68年のムーブメントは「豊かなアイデアがあったが、プロジェクトが足りなかったために失敗した」と考えていたそうです。一方、現代の研究では77年のムーブメントには「知性が欠如し、より卑俗であった」と評論されることもある。プロレタリアートのムーブメントの核から、いつしか工場労働者が後退し、主人公は学生や職のない若者たちとなった時代です。

この時代、『労働者の力』から発展して支持を拡大した 『労働者によるアウトノミー』は、学生たちに人気の雑誌『Rosso (赤)』を発行。工場労働者たちにはネオファシストである資本家の下、予告なくストライキ、あるいはサボタージュを敢行するなど、攻撃的な労働闘争を推奨していました。彼らにとって「暴力を諦めることは新しい世界を諦めること」であり、武装闘争による政治、つまり戦争を超えずにはユートピアへは行き着かない、と考える『赤い旅団』と同じ方向性を維持していた。

若者たちの間に、このような『武装革命』の機運が高まる中、’77ムーブメントのもうひとつの重要な側面は、『人権』というコンセプトに大きなスポットが当たった、という事実でもあります。

そして、その『人権運動』で大きな役割を果たしたのが、前述のイタリアの『人権の父』と呼ばれるマルコ・パンネッラが率いるPartito Radicale 『急進党』。『急進党』は74年に国民投票で『離婚』を、77年には『中絶』合法化など、非暴力主義 (ガンジー主義)を貫いて『人権』の保護、『選択の自由』を強く訴え、女性の権利、ホモセクシュアルの権利、安楽死問題、大麻の合法化、難民問題など、多岐にわたる『人権問題』に署名運動やハンストで徹底的に闘っています。この『急進党』のシンボルであったパンネッラが生涯をかけて取り組み、訴え続けてきたマイノリティの権利の保護が、現在のイタリアの『人権』に関する議論の基盤になったと言っても過言ではありません。

さらにこの頃になると、『武装革命』を目指す極左グループとは一線を画す、77年ならではの重要なユートピア・ムーブメントが起きています。これはイタリアにブリティッシュ&アメリカン・パンクが流入したと同時に巻き起こった現象で、フリークス( frichettoni:ヒッピー)、フラワーチルドレン、ゲイの人々、アナーキスト、自由主義者、疎外された人々、フェミニストなど、てんでばらばらに多様な人々が集まって、コスプレで街を練り歩き、歌ったり、踊ったり、芝居をしたり、パフォーマンスをしたり、と自由にクリエイティブにデモを行う『Indiani Metropolitani (メトロポリスのインディアンたち)』と呼ばれる若者たちによるカウンターカルチャーの出現でした。この現象は、そもそもはミラノの雑誌『裸の王様』が主催したフェスティバルで繰り広げられた、平和的な乱痴気騒ぎがイタリア全国に広がったもので、ウッドストックのコンセプトからも大きく影響を受けているそうです。

その、『メトロポリスのインディアンたち』は、好き勝手なコスチュームを纏って集会に参加、と思えば、ピエロのメイクで裸で踊ったり、広場や路上で芝居やパフォーマンスをはじめたり、と突飛な方法で自分たちの権利を主張。スローガンとして『Pane e Rosa (パンと薔薇) 』を叫び、『革命』はサラリーや食べるものだけではなく、自分たちに歓喜をももたらさなければならない、と訴えた。この『インディアンたち』にはリーダーが存在せず、すべての行動に個人ひとりひとりが責任を負わなければならない、という暗黙の約束事があったのだそうです。

彼らの特徴は、といえば、まずクリエイティブであり、非合法をものともせず、自然発生的に集まって、ほぼ非暴力を貫いた。さらにその表現は、どこか皮肉っぽく、毒のある笑いを特徴としていました。考えてみれば、体裁は大きく変わっても、彼らの精神性、皮肉っぽいセンスは現代イタリアで活動するストリートアーティストたちの性格に、かなり近いかもしれません。

この『メトロポリタンのインディアンたち』のアイデアは、共産主義と個人的な欲求をミックスして構築された独自のもので、既成概念に囚われない表現による『スペースの占拠』の精神は、やがてイタリア共産党のローマ文化評議委員レナート・ニコリーニがプロジェクトして一世を風靡した、ローマの街中がストリートパフォーマンスの劇場と化した『エスターテ・ロマーナ(ローマの夏)』に受け継がれ、現在では、MAAMやAngelo maiなど『文化スペース占拠』のコンセプトとして引き継がれています。

また、郊外のスラムと化した地区では、国家に見放され、数々の犯罪に手を染めながら、ヘロインなどの強い麻薬に溺れるルンペンプロレタリアートを助けるために、『労働者のアウトノミー』や『継続する闘争』の極左グループメンバーが、荒れ果てるままに放ったらかしにされている廃屋を、次々に『占拠』していた。若者たちは困窮者の住居を確保したのち、近くの電線から電気を不法に引いたり、人が暮らせる状態に修復したりと、ヘロインなどの強い麻薬から彼らを引き離すために腐心しています。極左グループの若者たちは本来、弱者を助けるべきイタリア共産党が、国政の場で存在感を示すことに躍起になり、その役割を怠っていると感じ、資本家より国家よりキリスト教民主党より何より、イタリア共産党こそ憎悪すべき敵、とみなしていたそうです。

そういうわけで77年は、武装によって国家を攻撃することによって『ユートピア』を実現しようとする流れと、ほぼ平和主義を貫きながら、自由でクリエイティブに自分たちの権利を主張して『ユートピア』を実現しようとするふたつの大きな流れに大きく分かれていた。しかし、その根底に流れる共通の理念は「(サラリーだけを目標に奴隷のような)仕事の拒絶」「再び我々の手にすべてを取り戻す」「自分自身で、自分自身を評価する(僕らには価値がある」というものでした。

自らを「プロレタリアート」と自認する彼らは、プロレタリアートにも贅沢をする権利がある、とスーパーマーケットで、高級食品、キャビアやシャンパン、あるいは本屋でも万引きをして欲しいものを確保。さらには映画館、劇場にもチケットを買わずに忍び込み、バス、汽車、電車など交通機関もタダ乗りという具合でした。それを『Spese Proletarieープロレタリア経費』と呼んで、ちゃっかり正当化。また、映画館まるごと占拠して、無料で映画を市民に解放する、というアクションも度々起こし、現在、ローマで大きな支持を得る、占拠した広場で無料映画上映を企画するチネマ・アメリカのルーツともなっています。

さらにこの時代を代表すべき新しいメディアとして、インディペンデント・ラジオの発展があります。これは76年に地上波が自由化されたことで、学生たちが次々にラジオ局を創設。地区の若者たちの気持ちを音楽とパンクな議論でひとつに結んだ、ボローニャの伝説のラジオ・アリーチェ(77年に当局に踏み込まれて解散)をはじめ、ラジオ・オンダロッサ、ラジオ・チッタフトゥーロエピチェントロ、ラジオ・ラディカーレ(『急進党』のラジオ部門)などがあり、現在でも継続。このインディペンデント・ラジオの登場で、市民は初めて議会の質疑を自分の耳で聴けるようになり、政治をライブで知ることができるようになりました。

 

※ボブ・マーレー&ウェイラーズのこの曲も77年だったんです。1980年にはミラノのサン・シーロ・スタジアムでイタリア全国から10万人を集めてのコンサートが開かれ、語り草となっています。

 

『赤い旅団』マリオ・モレッティが語る’77ムーブメント

ロッサーナ・ロッサンダは、マリオ・モレッティへのインタビューで、「77年のムーブメントは、あなたたちの誰かが武器を使って激化させたんじゃないのか」「ムーブメントの指揮を執ったのは誰なのか」と、76年を境にアクションを先鋭化させた『赤い旅団』に疑問を呈し、学生たちのムーブメントに『旅団』の介入があったのでは、と厳しく質問をしています。しかしモレッティは「指揮をした人間などはいないよ。誰もがメトロポリタンで闘う反体制者、『プロレタリアート共産党』のメンバーだったんだから」と曖昧に答えている。

興味深いのは、モレッティが77年のムーブメントを「68年のムーブメントとは明らかに違う若者たちによる抗議運動であった」「70年代中盤に入ると、ムーブメントの最もラディカルな存在は、『工場労働者』ではなく、ウァルター・アラシアのような『学生』や、区域の若者たちへと変わっていった」とも断言していることです。

「では『赤い旅団』は、工場での闘いは捨ててしまったのか。そもそも工場が『赤い旅団』の核ではなかったのか。72~73年までは、アンタゴニストー反体制者は、労働階級のアヴァンギャルドな過激派という位置づけで、それがイタリアの極左集団の伝統的な特徴だったが、77年になると他のヨーロッパの武装グループと全く同じになってしまったのでは?」という問いには、「工場は闘いの場としては狭すぎるようになった。世の中に緊張を生むことで権力を解体させ、機能を麻痺させようという目標が、僕たちのストラテジーに変わっていったんだ」とモレッティは答えている。さらに「自分には77 年のムーブメントはまったく掴み所がなく、理解できない」とも言っています。確かに『メトロポリタンのインディアンたち』をモレッティが理解して、共感したとは到底想像できません。

クルチョ、フランチェスキーニが逮捕され、マラ・カゴールが死亡したあと、『赤い旅団』のメンタリティも大きく変わり、『市民戦争』にまで発展した過激な’77ムーブメントから大きな支持を得て、多くのメンバーをリクルートしてもいる。68年のムーブメントとは世代が違う多くの若者が『赤い旅団』に参入することになりました。

77年を境に、もはや『赤い旅団』は戦中戦後、ファシズムを相手に闘い続けた共産主義パルチザンの伝統からは、遥かにかけ離れた存在、ただのテロリスト集団に変遷した、ということです。

 

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