『鉛の時代』拳銃とパンと薔薇、’77ムーブメントと『赤い旅団』

Anni di piombo Deep Roma Occupazione Storia

何回かこのサイトでも書きましたが、イタリアに慣れた頃、最も非常識に思ったのは、日本では1970年まで続いた学生運動以後、すっかり廃れてしまった『占拠』という現象が、あちらこちらで日常茶飯事に起こっていたことでした。荒れ果てたまま置き去りにされた古い劇場や映画館、営業を停止したホテル、広大な工場跡や廃屋となった議員宿舎が、文化スペース住居として、ある日突然有志たちに『非合法』に、しかし堂々と『占拠』され、当然のように普通に機能する。もちろん、『非合法』ですから強制退去の危機と常に背中合わせではありますが、退去になればまた占拠、と人々は『占拠』を諦めない。そしてこの現象のルーツは、武装学生たちが発砲しながら荒れ狂い、『市民戦争』レベルにまで発展した’77のムーブメントにありました。

※この項は▷『赤い旅団』の誕生▷フィルトリネッリと『赤い旅団』▷『赤い旅団』と謀略のメカニズムの続きです。(写真は「77年の若者たち」doppiozero.comより引用)

既存の議会政治の流れとは一線を画した、反議会主義グループが運営するチェントロ・ソチャーレと呼ばれる『占拠』文化スペースが、ローマの中心街周辺に(極左ーアナーキズムやフェミニストグループを含み・極右ーカーサ・パウンドなど)パッと思いついただけでも8つ、9つは存在し、いずれも独自のチョイスによる音楽やアート、芝居を上演、その他知識人を招いての講演会、市民集会など、プロフェッショナルなレベルでアウトノミー(完全自治)に運営されています。

「まさかここでこんな作品が観れるとは」と驚く国際的著名アーティストの作品展示に出会うこともあり、ふと隣のテーブルを見ると、観客として訪れているのが、カンヌ映画祭常連監督だったり、人気俳優だったり、重鎮の美術評論家だったりと、表現者たちのちょっとした社交場にもなっている。そういえば、神父さまや伝説の左派政治家を見かけたこともありました。

これらの『占拠』スペースは基本、商業利益を完全に無視、入場者のカンパ、メンバーシップ・フィー、あるいは自主制作刊行物やグッズの販売で経費を賄いながら、アーティストたちに自由でクリエイティブな表現の場を提供。さらには難民・移民問題、貧困格差問題、住居問題など、巷に渦巻く過酷な社会問題にも鋭く切り込み、たちまちのうちに有志によるボランティアグループが形成される。難民・移民の人々、ロムの人々のための語学学校や法律相談、就職相談所、健康相談所などを完備するチェントロ・ソチャーレも存在し、占拠スペースによっては自治区役所のようでもあります。

また、経済危機や失職などで住居を追われた人々が団結し、廃屋となった建物を、怒涛のように『占拠』するケースも非常に多く、ローマだけで、なんと92の建物 (2018年 8月時点:コリエレ・デッラ・セーラ紙)が占拠され、12000人の人々が『非合法』に暮らしているのだそうです。

『占拠』という現象を知った頃は、強制退去のリスクをものともせず、住む家を失ったから『占拠』、自分たちの表現を追求する場がないから『占拠』という、簡単に世の中の仕組みを無視するアウト・ローなメンタリティがまったく理解できませんでしたが、イタリアの『鉛の時代』を紐解いていくにつれ、その現象が意図するイデオロギーが、だんだんに理解できるようになりました。

いまさらではありますが、『占拠』はベルリンの壁が崩れ、ソ連が崩壊してもなお、世代を超えてイタリア市民の底流に根づく『プロレタリアート』の遺伝子、イタリアの77年のムーブメントを席巻した『アウトノミー(自治)』のコンセプトをルーツとする『プロレタリアート闘争』の一形態。当時の極左の若者たちを熱狂させたイングリッシュ&アメリカン・パンク魂が、現代まで営々と引き継がれているものです。もちろん『非合法』ですから、常に当局からは勧告を受け続け、突然の暴力的『強制退去』とも背中合わせの日々、そのギリギリの緊張感に立脚しながら、世俗の干渉を押しのけ、呑気に好きなように運営を続けている。

しかしこれほどまでに世界中にグローバリズムが行き渡り、街じゅう監視カメラで埋め尽くされ、消費活動までネットですっかり管理される時代に、『占拠』という行為が可能な、管理されずに忘れ去られたスペースが、まだまだ存在するイタリアの現代社会の余裕と緩みを、個人的には「とても面白い!」と思います。さらには『占拠』スペースから、社会に影響力を持つミュージシャンやアーティストが輩出されるケースも多くあり、最近では、少年の頃からローマのチェントロソチャーレでうだうだしていたZero calcare (カルシウムゼロ)という漫画家が、左派のオピニオンリーダーのひとりとして躍り出ています。

 

※パンクではありませんが、77年といえば、やはりこれ。Talking Heads:77   Psycho Killer

 

とはいえ、『同盟』『五つ星運動』の連帯政府になって120日、今までの緩い方針が大きく変わり、人気のある『占拠』スペースが強制退去となったり、裁判で途方もない金額の賠償請求判決が下されることも多くなりました。しかしそのたびに、歴史ある『占拠』スペースに賛同する市民が強制退去に猛反対、市庁舎で大がかりなデモを繰り広げたり、SNSで署名を募ったりと、抗戦姿勢を崩しません。個人的には、イタリア名物『占拠』スペースは、予期せぬ才能を開花させる、自由でクリエイティブな実験の場として消滅して欲しくない。「国や地方自治体が何もやってくれないのなら、自分たちでなんとかする!」という人々の心意気が押しつぶされないことを、願ってやみません。

さて、『占拠』はさておき、冷戦下に張り巡らされたグラディオの謀略のもと、毎年毎月爆弾が炸裂、多くの無辜の市民が命を奪われ、ターゲットを絞った政治殺人が繰り返された、緊張と悲しみの『鉛の時代』。『革命』の機運はいよいよ高まり、若者たちは熱病に浮かされたように常軌を逸していった。イタリアの戦後、最も大きな市民の騒乱となった、’77ムーブメントに迫ってみたいと思います。まず1977年は冷戦下、文化的に言えば、前述したパンクが世界のミュージック・シーンを席巻し、過激な動きが各地で起こっている年です。

イタリアの’77のムーブメントに関していえば、極左、極右過激派グループだけでなく、ごく普通にデモに参加していた学生たちが、突如としてピストルを構え撃ちまくり、当局も銃を乱射、流血の騒乱にまで発展した。と同時に、武装しない平和主義の若者たちが、世間のあらゆる約束事を逸脱しながら、歌い、踊り、盗み、奪い、愛し合う、お祭り騒ぎで反抗した時代でもあります。その時代を生きた世代の人々は、「社会全体が、まるで伝染病にかかったみたいだったよ。それがなぜだか僕らには分からないんだけれどね」と口を揃えますが、その口調からは、自らの逸脱に後悔はないようです。

ドイツ赤軍RAFと日本赤軍の77年

さっそくですが、ここで脱線します。冷戦下、イタリアの『鉛の時代』を追ううちに、「その頃の日本ではいったい何が起こっていたっけ」と年表を見て、ふと思ったのは、西側において(日本も含め)、パレスティナ人民解放戦線(PFLP)と思想的に強い絆を結んだ極左武装革命集団が、次々と極端な殺戮事件を起こしたのは、イタリア、ドイツ、日本という三国同盟、第二次世界大戦の敗戦国だけだ、ということでした。

もちろんアメリカでもフランスでも英国でも、「公民権運動」「フリースピーチ」、「フランスの5月」「ヴェトナム戦争反対」など、時代を揺るがす大きなうねりが起こっていますが、『日本赤軍』や『ドイツ赤軍』、『赤い旅団』のように、人々を恐怖ーテロで打ちのめし、時代のメンタリティを変えてしまうほど衝撃的な事件を起こした武装集団は、わたしが知る限りにおいて他の西側諸国からは生まれていない。

先の項でも書いたように、イタリアには現代でも、40年も昔の『鉛の時代』の数々の事件の謎に挑み、証言、証拠をもとに真実に光を当てようと調査し続ける多くの司法官やジャーナリストが存在。それぞれの事件のメモリアル・デーに寄せて、膨大な数の書籍や映画、新聞記事、ドキュメンタリー番組が発表されます。また、それぞれの事件の詳細に新たな情報が浮上すると、主要メディアがただちに報道。かつて人々を奈落に突き落とした虐殺事件の数々を、決して記憶の彼方へと置き去りにしようとはしない。したがって、普通に新聞を読んだり、テレビを見たり、ネットを覗いたり、日常を過ごすだけで、『鉛の時代』の事件の断片に出会うことになります。

ドイツに関しては、まったくドイツ語が分からないため、冷戦下に過激派が起こした事件を題材にしたいくつかの映画を観るぐらいで、その時代が、現代社会においてどれほど重要視されているのか見当がつかないのですが、かつて『ドイツ赤軍』が起こした事件の数々をWikipediaや年表で見てみると、『日本赤軍』や『赤い旅団』の動きに酷似していることに強い印象を受けます。3者の相違点はといえば、それぞれの活動に多少のタイムラグがあることだけで、テロのアプローチは、誘拐が『赤い旅団』と『ドイツ赤軍』、飛行機のハイジャックが『日本赤軍』と『ドイツ赤軍』、と共通点が多い。

現在、当時グラディオ下にあった『旅団』と『ドイツ赤軍』は交流が指摘されていますが、『日本赤軍』に関して詳細を知らないわたしには、残念ながらその関係をうかがい知ることができません。共通項であるPFLPを通じて、互いが互いに影響しあっていたということでしょうか。

いずれにしても77年という年には、『日本赤軍』が9月28日、『ドイツ赤軍』を代行したPFLPが10月13日、と1ヶ月も開けずに大がかりなハイジャック事件を起こし、世界を震撼させている。『日本赤軍』が起こした日本航空472便ハイジャック事件では、時の首相、福田赳夫が「人の命は地球より重い」という後世に残る言葉を残し、70年に起きた共産主義者同盟赤軍派「よど号」ハイジャック同様、運輸政務次官らが「身代わりになる」と決死の覚悟でダッカに乗り込んでいる。

結局、政務次官らが人質の身代わりとなることをテロリスト側から拒絶されましたが、一滴の血も流さないで武装集団の要求を呑み、莫大な身代金とともに受刑中のテロリストたちを解放、数十人づつ乗客を飛行機から降ろし、最終的にはアルジェリアで全員解放に成功。「テロには屈した」という形にはなっても、乗客141名、乗員14名の生命を最優先した人道的な政府の采配は、今から思うなら、たとえ批判の波に晒されて時の首相が辞任せざるを得なかったとしても、国民の『政府』への信頼を強固にしたように思います。と同時に人々は、完全に極左思想に恐怖と嫌悪を覚え、政治的な議論から、いよいよ遠ざかったかもしれません。

一方、『ドイツ赤軍』と緊密な関係を結ぶパレスチナ人民解放戦線(PFLP)が10月13日に起こしたルフトハンザドイツ航空181便ハイジャック事件は、『日本赤軍』が起こした事件とは結末が大きく異なり、中東各国に着陸を拒否され、空港をたらい回しになった挙句、犯人全員が射殺されるというショッキングな結末で幕を閉じている。その際、乗客と交換に解放を要求された獄中のメンバー3人が自殺(自殺と見せかけた非合法の処刑という説が根強く語られますし、『赤い旅団』創立メンバーのアルベルト・フランチェスキーニも逮捕ののち「僕らもいずれRAFのように消される」と考えていたと言います)、そののちRAFに誘拐されていた実業家も惨殺され、鬱々と重い悲劇に終わっています。

そこで、『ドイツ赤軍』に関して少し情報を得たいと、イタリアの『Anni di piombo – 鉛の時代』という呼称の語源となった81年の映画、西ドイツのマルガレーテ・フォン・トロッタ監督がヴェネチア映画祭で金獅子賞を獲得した『Die bleierne Zeit  – 鉛の時代』を改めて観てみました。かつて、ナチスによる強制収容所で繰り広げられた、非道な残虐を脳裏に焼きつけられた少女(モデルは『ドイツ赤軍』前身のバーダー・マインホフ・グルッペの創立メンバー、ウルリケ・マインホフ)と、フェミニストであるジャーナリストの姉の物語が静かに語られる、哀しみに満ちたフィクションです。

冷戦下、アメリカ型資本主義が怒涛のように流れ込み激変する時代、マルクス・レーニン主義『革命』にユートピアを夢見、理想と救いを求めた、いわば歪んだ『正義』と、主人公を取り巻く不条理、何度かシーンに現れるキリストのイコンが印象に残った。また、この映画で表現される厳格な刑務所のあり方は、われわれが生きる、いつのまにか「管理」までモダンに、より精密になる、世界の有り様をも暗示しているかもしれません。

キリストは歴史上はじめて現れた共産主義者である」と断言した『赤い旅団』のレナート・クルチョ(パソリーニもそう表現していますし)といい、『ドイツ赤軍』といい、戦後、ルーズベルトのマーシャル・プランに組み込まれ高度成長を遂げた、欧州におけるマルクス・レーニン主義革命思想の拡大は、「貧しき者は幸いである」と福音書に刻まれるキリスト教文化という背景が、切り離せない要因のひとつと考えます。

では、日本で当時爆発した極左運動のルーツとなる精神性とはなんだったのか。何が彼らを『革命』に駆りたてたのか、敗戦国ゆえの単純なルサンチマンと捉えていいのか、日本という国で『連合赤軍』『日本赤軍』『東アジア反日武装戦線』いう極端な過激派が台頭した背景にあるのは何なのか、いまだに具体的な動機に至った背景が掴めないまま、多少もやもやしています。

いずれにしても今となっては、イタリアにおいても、日本においても、夢のような時代です。77年の日本は、というとイタリアとはまったく違う意味での『狂乱』ー記号の集積であるポストモダンな都市、『中流階級』を自認する人々の『消費』という闘争へと、次第に突入していった。一方、グラディオ下にある当時のイタリアはといえば、自らを『プロレタリアート』と認識する学生、若者たちが大挙して、過激度を増した『赤い旅団』の方向性に賛意を示す年となりました。

 

※ザ・クラッシュの登場も77年でした。 The Clash White Riot

『赤い旅団』と女性たち

ところで、本題に入る前にさらに脱線することになってしまいますが、こうしてドイツ、イタリア、日本の極左武装集団を改めて眺め、まず注目することは、いずれのグループでも、女性がリーダーとして重要なポストに就いてグループを牽引していることでしょうか。『日本赤軍』は重信房子、『ドイツ赤軍』はウルリケ・マインホフ、『赤い旅団』に関しては、創立メンバーである、レナート・クルチョのパートナーであり、初期の重要な幹部として『旅団』の中心人物となったマラ・カゴールが存在する。

イタリアでは、68年に爆発した労働者と学生たちによる大きな抗議ムーブメントの頃から、60年代に米国に起こったウーマン・リブの流れを受け、女性たちが団結して、旧態依然とした父権社会に断固抵抗。「女性の権利」を強く訴えるフェミニズムの息吹は、70年代に入った途端に大きく発展しています。また、77年のムーブメントでは、フェミニストの存在が政治闘争の重要な核ともなっています。

ともあれ『赤い旅団』のマラ・カゴールという女性は、メンバーの誰からも慕われ、頼りにされる女性だったようです。たとえば『アルド・モーロ誘拐・殺人事件』の主犯マリオ・モレッティは、『Una storia italiana (イタリアのひとつの物語)ーカルラ・モスカ、ロッサーナ・ロッサンダによるインタビュー)』で、「マルゲリータ(マラは通称)は僕にとっても、組織にとっても、仲間達にとっても、非常に重要な存在だった」「僕の中に残っている彼女のイメージは、とてもノーマルな女性だというものだ。それなのに彼女のイメージは、(テロリストのイメージが焼き付けられ)まったくつまらないものになってしまっているけれどね。彼女は僕らのジェネレーションの女性が持つ、すべての問題を考えている本物の女性だった」と手放しで称えています。

「僕は彼女のことを(モレッティがかつて技師として働き、仲間たちと共同生活をしていた)シット・シーメンス時代から知っているが、誘惑し合うようなこともなく、緊張する必要のない、気楽でいながら、深く分かり合える友人だったんだ。こんな感覚は女性との関係においてはとても珍しいものだと思うよ。僕らは内面的なことも含め、何でも、恐れなく、誤解なく話し合えたし、彼女には嘘をつく必要もなかった」「彼女は非常に難しい問題を抱えているときでさえ、非常に賢く、陽気だったよ」

『モーロ事件』の主犯として、『赤い旅団』のグランデ・ヴェッキオ(黒幕)と言われるコラード・シミオーニとの緊密な関係を強く疑われるモレッティは、事件の核心に触れるような質問に対しては、きわめて饒舌に、さらりとはぐらかす。しかし資本家の誘拐のために用意した隠れ家を急襲され、カラビニエリとの銃撃戦で死亡したマラ・カゴールの話をする際は、声をつまらせ、痛みを露わにしています。インタビュアーであるロッサンダが「カゴールの話をするときのあなたは、とても苦しそう」と言葉をかけるくらいです。

また、そのモレッティを「真実を話すべきだ」と糾弾し続ける元幹部アルベルト・フランチェスキーニも、カゴールについてはモレッティ同様、絶対の信頼と親愛を表明。自分の姉のような存在だったとも語っています。いずれにしても、75年にカゴールがカラビニエリに銃撃された際、共に行動していたはずの『旅団』メンバーが誰であったのか、現在まで明らかになっていないことも、フランチェスキーニがモレッティへの疑惑を募らせるひとつの原因ともなっているようです。

もちろん『赤い旅団』は創立以来、マラ・カゴールだけではなく、多くの女性をメンバーに持ち、バルバラ・バルゼラーニ、アンナ・ラウラ・ブラゲッティのように『モーロ事件』の主要メンバーとしても多くの女性が関わっている。興味深かったのは、ロッサンダの「 ロンコーニやマントヴァーニ(共に女性メンバー)は『旅団』のストーリーでは、どんな役割を占めていたのか。平等に仲間だったのか。それとも『俺たちの(所有する)』仲間だったのか」との質問に、モレッティが次のように答えていることです。

「僕らが、男たち同様に、あるいは、幹部であったマルゲリータ (マラ)と同じように、バルバラ・バルゼラーニやマルッチャ・ブリオスキ、アウロラ・ベッティ (共に女性メンバー)を扱ったか、と聞くのかい? バルバラはローマ・アジトのリーダーとして指揮を執っていたんだよ。非常に繊細な女性だったが、その繊細さは、いわば鋼鉄の繊細さだった。マルゲリータは2年間、フィアットの労働者たち、彼らと深く関わるメンバーたちをまとめるという、『旅団』においては最も権威あるトリノの指揮を執っていたんだ」

「いいかい。工場労働者たちから尊敬されるには、とても美しい緑の眼を持っているだけじゃだめなんだ。それ以上のエネルギーを当然必要とし、マルゲリータはそれを持ち合わせていた。個人的には、女性メンバーたちは巷で言われるよりもずっと大きな役割を担っていた、と確信している。マスキリズムのイメージがマスメディアを席巻し、男性だけが政治ができる、あるいは告発できる、と考えられ、(政治に関わる)女性はただ熱に浮かされただけだ、と解釈されているようだが、『赤い旅団』においては、女性は男性以上でも以下でもない。まったく同等だ」

その答えに、ロッサンダは「フェミニストたちも、あなたたちとまったく同じことを言うと思うわ」と答えています。

 

70年代中盤、流行を創出し続け、一世を風靡したPARCO の広告シリーズ。これは1976年の男性ヌードをイメージに使った広告 (AD 石岡瑛子)。日本では『政治闘争』としてフェミニズムが好意的に語られることは少なかったが、当時、日本のひとつのサブカルチャーを担った広告の分野で、男女平等の視点から捉えた、まったく新しいメッセージが訴求された。消費を促す広告がオピニオン・リーダーの役割を果たす、という現象は日本独特のケース。

クルチョ、フランチェスキーニが逮捕されたのちの『赤い旅団』の動き

▶︎ここからは、セルジョ・サヴォリの『共和国の夜』書籍/TV番組、シルヴァーノ・ディ・プロスペーロ、ロザリオ・プリオーレの『赤い旅団を操ったのは誰なのか』、カルラ・モスカ、ロッサーナ・ロッサンダによるマリオ・モレッティインタビュー『イタリアのひとつの物語』、ジョルジョ・マンゾーニ著『赤い旅団メンバー、ウァルター・アラシア捜査』を中心に、Rai  Storia、Wikipedia、Youtubeなどを参考にまとめていきたいと思います。

74年にレナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニが逮捕されたのち、『赤い旅団』のメンバーたちは、末端のメンバーまで続々と逮捕されています。残された幹部マリオ・モレッティ、マラ・カゴールは、今後の『旅団』のオーガナイズをどうすべきか、戦略はどうすべきか、窮地に陥り途方に暮れた、とモレッティは語っている。

当時の極左思想を持つ学生たち、工場労働者たちは、73年のオイルショック以来、長く続く2桁のインフレ就職難、不平等な社会の有り様に怒りを募らせ、未来を信じることができなくなっていた。さらにイタリア共産党、労働組合が次第に国家機構の歯車になりつつあるように見え、まったく頼りにならないと落胆もしていました。「ならばユートピアは僕たちの手で掴むしかない。今こそ革命の時」若者たちのリビドーの沸点はすぐそこまで迫っていた。

『旅団』のメンバーはバラバラになり、このままでは統制が取れなくなることを案じた矢先のこと、マラ・カゴールが、「じゃあ、獄中の仲間をひとり解放しようよ」と提案。そもそも冷静で実務的な彼女は、自らのパートナーであるクルチョ解放を計画し、モレッティを含む5人の仲間とともに、即戦力でもあったレナート・クルチョの脱獄幇助を敢行することにしたのです。

75年の2月18日、クルチョが収監される刑務所を訪れたカゴールは、夫に差し入れをする心優しい妻を見事に演じて看守を欺き、すでに調べ上げていた刑務所で、ちょっとした銃撃戦を繰り広げながら、仲間とともにクルチョの脱獄幇助に成功。計画で使った刑務所の地図は、クルチョの弁護を引き受けた弁護士エドアルド・ディ・ジョヴァンニ(『フォンターナ広場爆破事件』から間を置かず、70年前半に国家と極右グループの共謀による犯行だと見抜いた、当時の極左思想支持の若者のバイブル『国家の虐殺』の著者のひとり)が作成しています。

73年以降執行幹部であり、『モーロ事件』の主犯とされるモレッティのこの時の役割は、といえば、外を歩く通行人から中の様子が分からないように扉の付近に立っているだけ、という意外に控えめなものでした。しかも冷酷にアルド・モーロ元首相を殺害した人物とはとても思えないほど、慌てふためいて、おろおろしています。

いずれにしても、娑婆に出たクルチョは、獄中で練っていた「多国籍巨大企業を増補するために存在する、帝国主義国家(イタリア)をバラバラに解体するため、また、キリスト教民主党と『歴史的合意』へと向かっているイタリア共産党を、再び(本来のマルクス・レーニン主義思想と)統合するための戦争」というコンセプトを提示、アントニオ・ネグリ同様、改めてイタリア国家を敵とみなし、工場労働者アンタゴニスト(反体制者)と位置づけました。

さらにクルチョは、73年以降の経済危機によるインフレは「多国籍企業グループの帝国主義者たちにより指揮されたもの」と断定、イタリアがアメリカ、ドイツモデルの産業行動を踏襲したことで経済危機が起こり、安定雇用を失った、と考えた。注目すべきは、この時点のレナート・クルチョによる『赤い旅団』の思想の核は、創立時から引き続き、伝統的共産主義思想を受け継ぐ『工場労働者』であったということです。

ここで『赤い旅団』は、それまで継続してきた工場における階級闘争革命に加え、反帝国主義としての武装共産主義闘争を再確認、「戦後の政治を担ってきたキリスト教民主党が、社会的平和を約束するのは、資本家たちの仲介をやりやすくするためである。一方、イタリア共産党は、工場労働者たちの闘争を破壊するのみならず、資本家を保護し、NATOが機能しやすいように配慮し続けるキリスト教民主党のプロジェクトに組み込まれてしまった」と定義した。この時代の『赤い旅団』はスターリニズムの影響があまりに強く、共産党のベルリンゲルがデザインしたユーロコミュニズムに、フェミニズム、エコロジーというコンセプトが反映されていることに気づいてはいませんでした。

また、この状況を打破するには、『国家へ戦争を挑む』アクションのみであると結論づけ、アバンギャルドな武装プロパガンダによる『市民戦争』を起こしたのち、資本家から労働者を解放、国を再建する復興の過程に、経済活況を期待した。そしてその計画を実行し、キリスト教民主党を倒すことを目的として『闘争する共産党』創立を宣言。このときクルチョが作成したドキュメントが、その後の『旅団』のストラテジーとなり、学生、工場労働者、各地域に配布され『赤い旅団』共鳴者のバイブルともなっています。

しかしこのドキュメント配布の前後、マラ・カゴールは銃弾に倒れ、レナート・クルチョは再逮捕されることになりました。そしてこの76年あたりから、トニ・ネグリとも連絡が途絶えたと考えられている。

刑務所からいったん『赤い旅団』に戻り、1年余りをアルファロメオの工場労働者たちとともに過ごしながら今後の戦略を構築したクルチョですが、その間、自らが創設した『赤い旅団』の質とメンバーがいつのまにか大きく変わってしまい、大きな孤独を感じたといいます。『旅団』は死んでしまったと思った、とものちに語っている。68年のムーブメントで共に立ち上がった労働者たちは、もはや極左運動の核ではなくなっていたのです。

 

 ※チープ・トリックも77年にデビューアルバムをリリース

『赤い旅団』、はじめての政治殺人とウァルター・アラシア

こうして初期のメンバーが完全に消失した76年、検察官フランチェスコ・ココを『赤い旅団』が殺害。ココはマリオ・ソッシ誘拐事件の際、人質との交換に『旅団』が要求したアナーキストたちの解放を、最後まで拒んだ検察官でした。この事件は、MSI(極右グループ)の事務所に忍び込んだ際、たまたま訪れたメンバーに見つかって、慌てて銃で応戦。ふたりのMSIメンバーを『旅団』が殺害してしまった事件ーいわば意図せず、偶発的に起こった74年の殺害事件とは異なり、明確にターゲットを定めた『国家への攻撃』となった『旅団』はじめての政治殺人と位置づけられています。

さらに76年には、かつて『赤い旅団』が誘拐を計画準備中に、忽然と姿を消したキリスト教民主党右派の弁護士、マッシモ・デ・カロリス(のちに秘密結社ロッジャP2メンバーであったことが明らかになる)のオフィスに『旅団』が押し入り恐喝。デ・カロリスのふくらはぎを狙って負傷させる(ガンビザッツィオーネ)事件をも起こしている。初期幹部アルベルト・フランチェスキーニによると、この「ガンビザッツィオーネ」という技は、「ミラノの魚屋」という触れ込みだった優秀なテロリスト、フランチェスコ・マラ (のちに諜報として潜り込んでいた、カラビニエリのパラシュート部隊の一員と判明)がメンバーに訓練したもので、このあと次々と犠牲者が増えることになります。

ところで、このデ・カロリス狙撃の実行犯のひとりは、『赤い旅団』の新しいメンバーになったばかりのウァルター・アラシアという20歳の青年でした。アラシアはミラノの郊外、セスト・サン・ジョヴァンニの出身。両親ともに工場労働者という家庭に生まれています。両親が支持する共産党文化で育った、明るく外交的な、ごく普通の青年でもありました。その彼が成長過程で、『旅団』の創立メンバーたちと同じように、国家機構の一部となりつつあるイタリア共産党に反発、家族もまったく知らないうちに『継続する闘争』に通いはじめ、さらに過激な『赤い旅団』へと移動しています。

76年の12月15日、そのアラシアを巡る悲劇は起こりました。当時、ほぼクランディスティーノ(偽装身分証明書で非合法に活動)として武装政治闘争に加わり、仲間内を転々としていたアラシアが、久しぶりに両親の家に帰った日の早朝5時のことです。いまだ闇に包まれた静かなミラノの郊外、ガンガンと銃で扉を打ち叩き、乱暴に足蹴りしながら「扉を開けろ。さもないと強行突破する」と警察隊が叫ぶ声に、アラシアの両親は驚いて飛び起きた。母親が寝巻きのまま、おそるおそる扉を開いたと同時に、なだれ込んできた警官のうちふたりを、すでに自室で起きていたアラシアは、隠し持っていた銃で射殺。窓から逃げようと、飛び出したところに無数の銃弾を浴び即死した。

その一部始終を目にした、アラシアと同じ部屋に寝ていた弟は「ウァルターは、まるで高度な訓練を積んでいたように、極めて冷静に行動した。顔色ひとつ変えずに、警官に銃口を向け発砲したんだ。僕は彼のそんな顔をまったく知らなかった」とそのときの衝撃をのちに語っています。

早朝、このように暴力的に実家に突然乗り込んで、軽機関銃で扉を叩き、何事が起こっているのか分からないまま、うろたえ怯える両親と弟の目前でアラシアを射殺したことは、当時、若者たちの大きな非難を浴びました。咄嗟に銃を構え、警官ふたりを射殺したアラシアを英雄視する若者たちも現れ、『赤い旅団』はその名を記憶を残すため、ミラノ・アジトを「ウァルター・アラシア」と名づけている。当局は、といえば、アラシアは初期の幹部がすでに逮捕されたあと、『赤い旅団』に生き残った過激派で、この事件を最後に『旅団』はほぼ壊滅した、と考えていたといいます。

しかし、当局の推測とは裏腹に、この時期、モレッティが新しい主軸となった『赤い旅団』は再構成されつつあり、極左武装グループNAP、Prima Linea(プリマ・リネアーローマの極左武装グループ)とも絆を結んでいました。また、この時期にフランコ・ボニソーリ、バルバラ・バルセラーニらの『アルド・モーロ誘拐・殺害事件』の中核となるメンバーが合流、ローマ・アジトを固めている。トニ・ネグリ、フランコ・ピペルノが創立した『労働者の力』からは、アドリアーナ・ファランダ、ヴァレリオ・モルッチが流れてくるなど、メンバーが総替わりしながら、新しい動きがはじまっています。

なおこの頃は、68年から70年代にかけて主役だった極左グループの編成が大きく変化した時期でもあります。たとえばLotta Continua『継続する闘争』は武装闘争から平和主義的に変遷を遂げたことでメンバーが離れ、機関紙のみを残して事実上解散。Potere Operaio (労働者の力)は発展し、さらに解散した『継続する闘争』から流れてきたメンバーも加わって、イタリア全国に共鳴者を持つColletivi autonomi di lavoratori e di studente ( 工場労働者と学生による集合的自治)を形成、 Autonomia Operaia (労働者によるアウトノミー)として拡大を遂げています。一方、76年のイタリア総選挙では、イタリア共産党が下院議席228、上院議席116、とキリスト教民主党に肉薄するほどに躍進。国政において、その影響力を無視できない勢力に成長しました。

特筆すべきことはこの76年、「コンピューターで計算してみると、73年、74年が大きな不況(実際にはオイルショックが起こっている)に見舞われるので、74年に大きな事件を起こし、その後、あらゆる右翼グループに忍び込み、そこで市民戦争を起こそう」と、まるで予言でもするかのように言っていた(フランチェスキーニ談)、件のコラード・シミオーニが、ヴァンニ・ムリナリス、ドゥーチョ・ベニオ、フランソワ・トゥッシャーら『スーパークラン』のメンバーとパリへ移り、語学学校『ヒペリオン』を創立していることです。フランソワ・トゥッシャーが、フランスの良心とも言われる慈善事業家、アベ・ピエール神父の孫であったことから、シミオーニはフランス社会から、大きな信用を得ることになった。

さらにこの年には、イタリアでも日本同様、世界規模の汚職事件『ロッキード事件』が暴露されています。

(『市民戦争』にまで発展した、武装した若者たちの騒乱の経緯、時代に流れたメンタリティは、次のページでたどります)

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