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『鉛の時代』国家の心臓部へとターゲットを変えた『赤い旅団』と謀略のメカニズム

Anni di piombo Deep Roma Società Storia

73年、世界を襲った第一次オイルショック

イタリア全国で学生たちの大規模衝突が起こるなか、73年の2月にはレナート・クルチョとプロスペロー・ガリナーリが、トリノ、Cisnal (労働組合イタリア全国連盟)の書記、ブルーノ・レバーテを誘拐、5時間監禁、尋問して解放するという事件を起こしています。『誘拐』は許しがたい犯罪ですが、この頃の『赤い旅団』は、ターゲットを誘拐すると、ピストルを突きつけ、ポラロイド写真を撮った後に解放する、という具合で、他の過激極左グループと大きな違いはありませんでした。資本家、あるいは権力機構への嫌がらせというプロパガンダの域を超えておらず、工場労働者を中心に彼らに賛同する市民たちも多く存在していたと言います。

☆『赤い旅団』と、イスラエルを介して微妙につながるベルトリ

73年の5月には、ミラノ警察署で開かれたカラブレージ警部殺害の『一周年の追悼会』で爆弾が炸裂し、4人が死亡、52人が負傷するという大事件が起きています。その犯人として自称『アナーキスト』のジャンフランコ・ベルトリが捜査されましたが、事件後すぐにイスラエルへと逃亡し、行方が分からなくなっている。しかしながら、のち2002年にベルトリは、なんと軍部諜報SIFARのシークレット・サービスで、コードネーム『フォンテ・ネグロ』としてSIDに従属していたことが明らかになりました。つまり市民への無差別攻撃は、すべて極左グループに疑惑が向けられるように、周到に準備されていたということです。

ミラノ警察署爆発事件におけるベルトリの真の目的は、『フォンターナ広場』事件後、『緊張作戦』を担う軍部諜報、極右テロリストたちが熱望していた『非常事態宣言』を出さなかった69年時の首相ルモールを「見せしめ」のために殺害することでもありました。しかしベルトリが仕掛けた爆弾が爆発したのは、ルモール首相が追悼式を去った直後のことで、犠牲となったのは無辜の市民でした。

またこの頃、次のアクションを計画していたフランチェスキーニは、再びモレッティに疑惑を抱くことになりました。6月に入って、『赤い旅団』はマリオ・モレッティ主導で、アルファ・ロメオの幹部ミケーレ・ミクッツィの誘拐を計画していましたが、その誘拐を巡り、コリエレ・デッラ・セーラ紙が掲載した『旅団』の警告のビラ写真を見て、フランチェスキーニは仰天した。というのも『旅団』のロゴが五芒星ではなく、六芒星、つまりイスラエルのシンボルである『ダビデの星』となっていたからです。

フランチェスキーニが「ロゴを間違えるとはどういうことだ!」と問い詰めると、モレッティはいつものように「間違っただけだ」と言い張りましたが、フランチェスキーニはモレッティのその態度に疑惑を深めます。さらにフランチェスキーニは、フェルトリネッリの死後、インターナショナルな連帯を失って途方に暮れていた『赤い旅団』に、ある日イスラエルの諜報 (!) から連絡が入ったことを思い出していた。

敵であるはずの国から支援の打診がある、というその尋常でない連絡は、73年から『赤い旅団』が発行しはじめた雑誌『Contro informazione – カウンター・インフォメーション』を編集していたトレント大学の社会学者、アントニオ・ベッラヴィータ、そして執筆者でもあったアルド・ボナーミを通じて行われたそうです。

イスラエル側は「わたしたちは君たちの存在に非常に興味があるのだ。君たちは君たちのやるべきことだけやればいい。資金と武器を供給してあげよう」と気前よく提案。その連絡が虚偽でないことの証明として、当時『赤い旅団』に紛れ込んだ3人のスパイの名を明示している。『旅団』のメンバーがその3人を調べると、確かに『旅団』にスパイとして紛れ込もうとしていた工場労働者たちだったという経緯です。もちろん当時の執行部、クルチョ、フランチェスキーニ、カゴールは「イスラエルから援助を受けるなんてとんでもない」、とイスラエルの提案にははっきりと「NO」と答えています。

ベッラヴィータとアルド・ボナーミという人物はモサドであったミラノの医者、ローランド・ベーベアクアと親しく、極左でありながらイスラエルとも絆を持つ人物でもありました。『赤い旅団』が、さらに過激に世間を騒がすテログループに成長することが、イスラエルにとっては利益となる事情があったことは明らかですが、この時代、敵か味方かはっきりしないまま、グレイゾーンで動いていた人物たちが大勢いることには驚かされます。末端の闘士たちは極左も極右も明確な思想を持っていても、その周囲には、右も左もなくイエスでもノーでもない曖昧な人々の存在があり、結局のところ、そのグレイゾーンの人々が歴史を動かしている、と言えるようにも思えます。

ちなみにこの『赤い旅団』が発行する雑誌、『カウンター・インフォメーション』の執筆者は、レナート・クルチョはもちろん、トニ・ネグリや『フォンターナ広場事件』直後に数人の共同執筆として匿名で出版され、極左の若者たちのバイブルとなった暴露書籍『La strage di stato(国家の虐殺)』の中心執筆者、弁護士エドアルド・デ・ジョヴァンニ、GAPのメンバーでもあった伝説のパルチザン、ジャンバティスタ・ラザーニャと、錚々たるメンバーで占められ、発行当初からその内容の濃密さとレベルの高さで、たちまちのうちに有名になっています。また「カウンター・インフォメーション』という雑誌は『赤い旅団』が外部との情報をやり取りのための『システム』という役割をも担っていたのだそうです。

このような経緯がありましたから、ミケーレ・ミクッツィ誘拐事件の際、モレッティがビラに書いた『ダヴィデの星』はひょっとすると、「俺たちに実力があることはわかるだろう? 『赤い旅団』のコマンドは俺なんだ」というメッセージだったのでないか、と現在のフランチェスキーニは考えるようになっています。また、イスラエルと『赤い旅団』を仲介して連絡をとったアルド・ボナーミは、5月のミラノ警察署爆破の実行犯、ジャンフランコ・ベルトリのイスラエル逃亡を幇助した人物(!)でもあったそうです。

 

☆マリオ・モレッティとプロスペロー・ガリナーリ

さらに72年の終わりには、シミオーニが去るとともに『赤い旅団』から消えたプロスペロー・ガリナーリが『旅団』に舞い戻り、前述したクルチョが主導したトリノの誘拐事件にも関わっています。そもそもガリナーリは、フランチェスキーニと同様、エミリア・ロマーニャの共産党青年部から派生した極左運動を出自とする、シミオーニの極秘精鋭武装集団「スーパークラン」のメンバーでもありました。

モレッティ同様、突然戻ってきたガリナーリに「今まで何処へ行っていたのか」と仲間たちが問うと、「労働組合の活動家たちと共にいた」と曖昧に答えていますが、その空白の間に何処に行方をくらましていたのか、正確なことはわかっていません。また、シミオーニとその他のスーパークランたち、つまり、76年にパリに移動し『ヒペリオン』という名の語学学校を設立、その中心人物となるヴァンニ・ムリナリス、ドゥーチョ・ベリオ、フランソワ・トゥッシャーらは、皆でヴェネトへと移動した、とその時ガリナーリは語っています。

ガリナーリにしても、モレッティにしても、舞い戻る理由が釈然とはしなくとも、その頃の『赤い旅団』の執行幹部は、創成期からの『Compagna-同志』である彼らを信頼し、受け入れざるを得ないと考えていました。また、初期の『赤い旅団』にはこのように、「同志的な友情と柔軟性」という要素が随所に見られることを興味深く思います。

実際、各メンバーの著書やインタビューを読んでも、血塗られた残酷な悪党たち、というイメージはなく、それぞれにそれぞれの思いというか、思想というか、物語というか、『人間』の情感が迸り、文学的とすら言えるかもしれない。とはいっても、わたしはテロリズムを容認するわけではなく、そこにロマンを見出すわけでもありません。ただ、人間の脆さ、危うさを切なく思います。

さて、1973年という年は、世界的な経済危機が市民の生活を直撃した重要な年でもあった。10月に火蓋が切られた第4次中東戦争勃発に伴う、第一次『オイル・ショック』の一陣が世界を吹き荒れることになり、日本同様、原油価格の高騰による経済混乱がイタリアを襲い、最終的には2桁のインフレを引き起こすほどになっています。そして『緊張作戦』下にあるイタリアの『オイル・ショック』に続く厳しい緊縮政策に、市民の怒りは日々募り、やがてその怒りがマグマとなって『鉛の時代』のピーク、そして時代のシンボルとも言える「1977年の全国規模抗議行動」へと収斂されていくことになる。この『市民戦争』とも言える77年のムーブメントについては、のち、考察する予定です。

この第1次『オイルショック』で世界中がエネルギー危機に陥り、欧州経済は大きなダメージを受け、特にイタリアにおいては致命的な打撃となった。ガソリンの値段が急騰し、日曜は車がまったく走らず、広告ネオンは22時で消され、街頭も消されて夜は深い暗闇となりました。車が売れなくなり、フィアットも危機を迎えています。この時代の映像を見ていると、時代を反映して、小銭の代わりにキャンディをお釣りにしている商店の様子に出くわすことがあって、微笑ましくもありますが、貨幣の流通そのものが滞っていたのかもしれません。

ところで何と言っても、この73年の『オイルショック』で思い出すのが、1969年の時点でコラード・シミオーニがクルチョやフランチェスキーニに語っていた計画でしょうか。「IBMのコンピューターを使った試算から(コンピューターでそんな試算ができるのかどうか、わたしには分からないのですが)、1973~74年には世界的な経済危機がおこるので、そこで大きな事件を起こそう。その時に優秀な人材を確保しつつ、あらゆる極左グループへと忍び込んで撹乱させ、『市民戦争』を起こすのだ」と、シミオーニはクルチョやカゴール、フランチェスキーニに、まるで予言するように話していました。

いずれにしても、この『オイルショック』期に『赤い旅団』幹部は、状況を理論的にアナライズ、資本主義の弱点を暴くチャンスと見なし、そこにマルキシズムの光を当てようと試みていた。大学生は、卒業しても職が見つからず、したがって将来の安定は望めず、若者たちの間には失望と怒りが渦巻いていました。また、サラリーが支払われなくなったせいで犯罪が増え、社会が殺伐とした。『赤い旅団』は、この状況を生んだ経済危機の中心にあるのは『巨大多国籍企業の専制』とみなし、『多国籍企業による帝国、その一端としての国家』打倒をスローガンに据えています。

目標にすべきは階級闘争革命のみならず、反帝国主義である共産主義へと向かうこと。その分析からやがて、彼らは闘いの場『工場』から『国家の心臓部』へと変化させていくことになる。そしてこれが、のちの『赤い旅団』の未来を決定的に運命づける、非常に重要なターゲットの変化となります。

 

音を立てて『赤い旅団』が変化しはじめた74年

74年は、それまでの『赤い旅団』のあり方が根底から覆されることになる年、と言ってもいいでしょう。もちろん、『赤い旅団』ははじめから、マルクス・レーニン主義を謳う武装集団であり、「民主主義によって世界を変えることはできない。『武装革命』、つまり国家との戦争によって権力を握るプロレタリアートの専制こそが唯一の共産主義国家のあり方」、と考えていましたから、放火や誘拐などの『テロ』というプロパガンダで存在感を誇示、目標に近づこうとしてきたわけです。しかし初期、つまり、この74年までに『旅団』が起こしたテロからは、1滴の血も流れることはありませんでした

さらに74年になると、なぜかイタリア共産党は、アルベルト・フランチェスキーニとピエリーノ・マルラッキ (兄弟が共産党機関紙『L’unitàーウニタ』で働いていた) に近づき、『赤い旅団』を離れて、共鳴者である裁判官、デ・ヴィンツェンツォに相談するように、進言しています。と同時に共産党は、コラード・シミオーニの『スーパークラン』のメンバーで、共産党に通っていた時期があるドゥーチョ・ベニオとそのパートナーにも同様に、その裁判官の元へ行って極左のアクションから離れることを提案しています。イタリア共産党は、実は『赤い旅団』の動きをすべて知り尽くし、さらには「スーパークラン」の存在をも知っていたそうです。

また、その頃のイタリア共産党は、例えばKGBか、あるいは自国の諜報か、何らかの諜報関係との繋がりで、今後の『赤い旅団』がエスカレートしていくこと事前に知っていた節があります。だからこそ、祖父が共産党結党メンバーのひとりであったフランチェスキーニをはじめ、共産党に関係のあるメンバーを、今後起こるであろうエスカレーションから引き離そうとしている。

イタリア共産党のこのアプローチは、もちろん共産党に縁のある彼らを助けたい、という意味合いもあるかもしれませんが、フランチェスキーニが「クルチョ、カゴールを裏切ることはできない」と提案を一蹴すると「これから起こることにはイタリア共産党、さらにCIGL(労働組合)は一切関わりがないし、われわれは何も知らないから。関係ないからね」と宣言された、とフランチェスキーニは述懐しています。つまりイタリア共産党は保身に回ったということでしょうか。

同時に、『赤い旅団』の存在をプラハが保護していることを知っていたイタリア共産党は、プラハにも『赤い旅団』との関係を断ち切ることを警告。おそらくイタリア共産党は、グラディオの詳細を知るキリスト教民主党、イタリア社会党同様に、イタリアが置かれた状況を知り尽くしていたのではないか、と推測されます。

68年以降、キリスト教民主党のアルド・モーロと密に対話をはじめ、選挙では躍進、政府議会で存在感を増したこの時期のイタリア共産党の立ち回りの背景を知ると、コリエレ・デッラ・セーラ紙にパソリーニが書いた75年の記事、『Io so – 僕は知っているのイタリア共産党批判が、やや明確になります。この年からイタリア共産党は、完全に『赤い旅団』の敵へと回り、激しく攻撃しはじめることになりました。

 

☆検察官マリオ・ソッシ誘拐事件

74年の5月、『赤い旅団』は78年の『アルド・モーロ事件』の布石ともなる、ジェノバの検察官『マリオ・ソッシ誘拐事件』を起こしています。この事件は、フランチェスキーニが核となったアクションで、73年にアナーキストグループ『10月22日』グループが起こした殺人事件に『無期懲役』の判決を下したマリオ・ソッシを誘拐、アナーキストたちの解放を要求するというものでした。フランチェスキーニは、この事件は明らかに『アルド・モーロ事件』のモデルであり、このケースの詳細を調べることは、『モーロ事件』の全容を突き詰めることに役にたつはずだ、とも言っています。

また、この『マリオ・ソッシ誘拐事件』は、今まで工場労働者の敵であった資本家から、検察官という国家機構の一端を担う人物へと、テロのターゲットが明らかに大きく変化した誘拐事件でもあります。のち、誘拐に関わった『旅団』のメンバー18人は全て身元が明らかになり、逮捕され裁判にかけられていますが、フランチェスコ・マッラというミラノの魚屋という触れ込みだったメンバーだけは、この時まったく名前が出ることがありませんでした。フランチェスキーニによると、このマッラという青年は、武器の扱いがプロ並みで、テロリストとしては非常に優秀だったそうで、ガンビザッツィオーネという、足を狙って一気に何発も銃を撃つと被弾者が一生歩けなくなる、という残酷なテクニックをメンバーに教えています。

フランチェスキーニは長い間、このマッラだけが身元が割れなかったことを不思議に思っていましたが、自らの裁判のためにあれこれと資料を読むうちに、誘拐事件のメンバーだったアルフレド・ブオナヴィータが、マリオ・モレッティはソッシの誘拐に何も関わっていないというのに、マッラが担ったパートの部分を「モレッティがやった」、と自供している箇所を見つけ、奇妙に思った、と言います。「ブオナヴィータは何かを知っていて、マッラをかばいたかったのでは? あるいはかばわなければならない事情があったのでは?」とも、咄嗟に思ったそうです。

その、魚屋であるはずのフランチェスコ・マッラの正体が判明したのは、98年の別の事件での取り調べの時でした。彼はそもそも内務省の諜報として、長期に渡って『赤い旅団』に潜入していたカラビニエリで、パラシュート部隊の一員だった。マッラ本人はといえば、フランチェスキーニに糾弾されたあと、自分はフランチェスキーニのことは知ってはいたが、『赤い旅団』に潜入していたことはない、と、わざわざラジオ番組に出演して語っています。マッラはその後、イタリア共産党上院議員らの調査に基づき、カラビニエリ大佐やフランチェスキーニが証人となり『赤い旅団潜入』で裁判にかけられることになりましたが、2001年に無罪の判決が出ています。

いずれにしても、ソッシを誘拐していた34日間、『赤い旅団』のメンバーは意外にも、毎日彼のために料理をして、まるで仲間のように家族的に、手厚く扱っています。ソッシは自分の命を守るために『国』が『旅団』の要求を呑んでアナーキストたちを解放し、自分が監禁されている『人民刑務所』と呼ばれるアパートを探すのをやめて欲しいと願い、妻や弁護士に手紙を書くうちに、やがて『旅団』のメンバーに協力、知っているすべての事情を告白するようになりました。

そうこうするうちに、アレッサンドリアの刑務所で突如として暴動が起こり、犯人と人質にとった全員7人が銃殺される、という事件が報道された。もちろん、この事件は『赤い旅団』とは何ら関係のない事件でしたが、「監禁されている場所さえ分かれば、お前たちもこうなるのだ」というメッセージだとメンバーたちは感じたそうです。

事実、これはその後長期に渡って、カラビニエリ・アンチテロリズム部隊の核となり、『赤い旅団』壊滅の総指揮を執るカルロ・アルベルト・ダッラ・キエザ大佐が企てた刑務所暴動で、『赤い旅団』、そして人質であるソッシへの『死刑宣告メッセージでもありました。ソッシもまた、そのメッセージを瞬時に理解しています。ダッラ・キエザ大佐はのちに不幸な結末を迎える、秘密結社ロッジャP2リストに名前が上がっていた人物ですが、このダッラ・キエザ大佐については後の項でも触れることになると思います。

正確なこの事件の背景は、ヴィート・ミチェリ(70年の黒い君主、ボルゲーゼのクーデター計画、ネオファシスト・テログループ『薔薇の風』との関係から74年に逮捕された軍部諜報SIDの幹部)が、アデリオ・マレッティ(『フォンターナ広場事件』をはじめ『緊張作戦』における極右テロの背景に暗躍したSID、カウンター諜報部Dのメンバー)に、カラビニエリとともにアジトに乗り込んで、ソッシもろとも『赤い旅団』の皆殺しを指示していたのだそうです。

というのも、ソッシという検察官は、SIDの内情に通じており、ヴィート・ミチェリはその秘密を喋られることを阻止しようとしたわけですが、ソッシ及び『赤い旅団』のメンバーたちは「僕らは同じ船に乗っている。皆殺しになるか、全員助かるかのいずれかだ」と話し合い、共に解決策を練って行くことになります。ソッシは自分が軍部諜報SIDに関わっていることを『赤い旅団』に告白。また、SID幹部のふたりの大佐が、アフリカの国々と通じ、武器とダイアモンドの取引をしていることを明らかにし、その取引には警察署長が加わっていると、洗いざらい『赤い旅団』に話しています。

また、ソッシの身柄との交換とした、受刑者『10月22日』グループのアナーキストたちの釈放要求は、キリスト教民主党のコラード・コルギが仲介し、ヴァチカンを通じて行われたそうです。アナーキストたちは「釈放されたならばキューバへ亡命したい」と強く希望していました。しかしながらフランチェスキーニは、この時カストロにひどく失望し、キューバ神話を打ち砕かれた、と語ります。というのもカストロは、青年たちの受け入れを承諾する交換条件として、フィアットのトラクターが50台必要だ、と要求してきたのです。キューバ社会主義国は、革命闘士の亡命受け入れに、タダでは応じませんでした。

こうして、交渉はほとんどうまく進むかに思えたのですが、担当の検察官であるフランチェスコ・ココがアナーキストたちの釈放に大反対し、交渉を阻止、結局取引は失敗に終わります。取引の失敗が明らかになり、『旅団』ではソッシを解放するか、それとも『死刑』にするか議論となり、マリオ・モレッティは「殺すべきだ」と一貫して主張しましたが、クルチョもフランチェスキーニも「人質」とはいえ、しばらくの間でも寝食を共にしたソッシに手をかけることができず、捜査のヘリコプターの音が近づいてきた際、慌ててソッシを解放することになりました。

 

☆ブレーシャで起こったデッラ・ロッジャ広場の爆発

5月22日に解放されたマリオ・ソッシ事件の6日後の5月28日、ブレーシャではデッラ・ロッジャ広場爆破事件が起こっています。この事件は2018年現在、いまだ裁判が続いている爆破事件で、デッラ・ロッジャ広場で行われた労働組合の集会に爆弾が仕掛けられ、8人が死亡、100人が重軽傷を負う、という極右グループが関与したテロでした。この事件に関しても、前述したヴィンチェンツォ・ヴィンチグエッラが主犯カルロ・マリア・マッジ、実行犯デルフォ・ゾルジらの詳細を語っています。

6月には、パドヴァで『赤い旅団』による、はじめての殺人がMSI(極右ーイタリア社会運動)のオフィス襲撃で起こっている。犠牲者はMSIの支持者である企業家グラツィアーノ・ジラルッチと、元カラビニエリでMSIに加盟しようと訪れていた年金受給者、ジュゼッペ・マッツォーラ。『旅団』のスザンナ・ロンコーニという女性闘士と、フランチェスキーニ、ガリナーリと同郷のエミリア・ロマーニャ出身のロベルト・オンニベーネの犯行でした。

8月には、ボローニャの地方都市サン・ベネデット・ヴァル・ディ・サンドロで列車が爆発12人が死亡、48人が重軽傷を負う惨事となりました。これは秘密結社ロッジャP2から資金を得た極右グループが企てた事件で、俗に『イタルクス事件』と呼ばれます。この汽車に乗っていたアルド・モーロ元首相が秘書から「重要書類のサイン」を理由に呼び戻され、ローマの次の駅で下車したことで、爆発に巻き込まれなかった、という経緯があり、その背景が調べ尽くされた事件です。

このように、毎月毎週、極右、極左ともにテロの応酬が続き、緊張が高まる74年の9月、ついに『赤い旅団』の創設者であり執行幹部、レナート・クルチョ、アルベルト・フランチェスキーニが逮捕されることになった。それもアンチテロリスト部隊長のアルベルト・ダッラ・キエザ大佐が、少し前から『旅団』に潜入させていたスパイ、南米の革命シーンで活躍した伝説の闘士シルヴァーノ・ジロットー(通称:フラーテ・ミトラ-軽機関銃修道士)と、『赤い旅団』が会う約束をした場所で、警察に取り押さえられる、というものでした。

クルチョ、フランチェスキーニ、そしてモレッティは、それまで「伝説の」フラーテ・ミトラ、ジロットーと何回か会い、写真まで一緒に撮って『仲間』だと信頼していましたが、ジロットーはといえば「クルチョとフランチェスキーニがやっているのは革命遊び。もっと真剣にやらねばならない」などと言っていたそうです。いずれにしても逮捕の日、モレッティにだけはなぜか「危険だから、待ち合わせには行くな」という、アノニマスな電話があったと仲間から伝言があり、モレッティはそれを、クルチョにもフランチェスキーニにも伝えてはいませんでした。また、ジロットーと一緒に撮った写真は、モレッティが写っている箇所だけ削られていた。

一方、クルチョとフランチェスキーニの逮捕時の事情に関して、マリオ・モレッティは、仲間のひとりが警告の電話を受けたので、急いでクルチョがいるはずの場所まで、その仲間とともに伝えに行ったが、玄関を叩いても返事がなかったと言っています。そのまま朝方まで家の前で待ったが、クルチョはその日予定を変えたのか、結局その場所にやってくることはなく伝えられなかった、と非常に残念そうな素振りをも見せている。

「フランチェスキーニが、ひとりだけ約束の場所に現れなかったモレッティを糾弾しているが、どう思うか」、と、マニフェスト紙のロッサーナ・ロッサンダに質問されると、「あの日、フランチェスキーニはローマに行くはずで、クルチョと一緒に車に乗ってジロットーに会いに行く予定ではなかった。誰も彼にそうしろ、とは言ってないからね。ローマに行かずにトリノに行くとは・・・。『赤い旅団』は個人の行動をリスペクトするが、ローマに行くはずの彼が、なぜ800キロも離れたトリノに行ったのか、説明すべきだよ」とモレッティは答えています。

モレッティは、『赤い旅団』を脱退した改悛者であるフランチェスキーニだけがたったひとり、自分を糾弾している、とも苦々しそうに話していますが、モレッティとフランチェスキーニは、そもそも互いが互いをあまりよく思っていなかったのかもしれません。いずれにしても、この時点でのモレッティへのフランチェスキーニの不信は、個人的な感情を巡る「思い過ごし」、と考えられるかもしれませんが、『アルド・モーロ事件』の詳細を見るうちに、モレッティを巡る説明のつかない状況、明らかな嘘、出来すぎたストーリー展開から、おそらくフランチェスキーニの当時の勘は正しいのではないか、とわたしは推測します。レナート・クルチョも逮捕されたのち、「モレッティはスパイだったね」と呟いたそうです。

シミオーニ、スーパークランからヒペリオンへ

さて、この年にはもうひとつ、『赤い旅団』の背景に蠢く怪しい事実が明らかになります。

フランチェスキーニとマラ・カゴールが、エドガルド・ソーニョの事務所に忍び込んで書類を物色していた時のことです。ソーニョは軍部クーデター計画の影には必ず存在する、君主専制主義パルチザン出身のファシストで、グラディオの隠れた立役者でもあります。物色中、突然マラ・カゴールが、「あれ?」と声をあげるので、フランチェスキーニが覗き込んだところ、エドガルド・ソーニョがロベルト・ドッティの葬儀書類にサインしているのを見つけて仰天します。

『赤い旅団』創世期、いまだコラード・シミオーニがDeus ex machina (デウス・エクス・マキナーギリシャ悲劇の機械仕掛けの神) であった頃、シミオーニは自身が秘密裏に構成した精鋭武装グループ『ジエ・ロッセ』のメンバーであったマラ・カゴールに「資金や情報など、必要なことがあれば、ロベルト・ドッティに助けて貰えばいい」とアドバイスしています。また、前項でも触れたように、フランチェスキーニが拒絶した、メンバーひとりひとりの趣味、性向をリスト化するためのアンケート用紙カゴールがまとめて届けるように命じられたのも、ロベルト・ドッティのオフィスでした。

ドッティという人物は71年に亡くなっていますが、戦後から暗躍し続けるファシスト、エドガルド・ソーニョと繋がっていた、ということはつまり、『赤い旅団』の背景にはシミオーニ(極左)ードッティ(?)ーソーニョ(極右)という構図がそもそも存在し、アンチテロリスト部隊長ダッラ・キエザ大佐ですら、当初、エドガルド・ソーニョと『赤い旅団』の直接の関係を疑ったという経緯があります。のちの調査によると、シミオーニとドッティは初めから、ソーニョが構成するカトリック教会と共産主義者の連携を阻止するための委員会を構成するアンチコミュニストでした。

当時エドガルド・ソーニョは、友人であるルイジ・カヴァッロとともに、あらゆる全ての政党、政治活動、すなわちキリスト教民主党(DC)、イタリア共産党(PCI)、イタリア社会党(PSI)、統一プロレタリアート・イタリア社会党(PSIUP)、イタリア共和党(PRI)、イタリア自由党(PLI)、CGIL(イタリア全国労働組合)、UIL(労働組合)、Lotta Continua(継続する闘争)、 Potere Operaio (労働者の力)に、スパイチームを編成して潜入させていたそうです。しかもソーニョは、そのスパイ活動でイタリア共産党の弱みを握っていたとも言われます。

またここで、マリオ・モレッティの名が出てきますが、ルイジ・カヴァッロの恋人は、モレッティのパートナーの両親が住むアパートと同じ建物に住んでいたことが判明し、77年にはカヴァッロと『赤い旅団』の関係が疑われてもいます。さらに、シミオーニの友人であったチェーザレ・モンディーニ(のち、謎の死を遂げていますという人物は、72年のルイジ・カラブレージ殺害のあと、新聞でその記事を読みながら「素晴らしい出来だ」と喜んでいたという報告もあるそうです。

さて、『赤い旅団』のグランデ・ヴェッキオー黒幕と目されるシミオーニという人物は、70年にクルチョ、フランチェスキーニに拒絶された後、スイスとの国境付近に邸宅を構え、一度入ったら出られない、というカルト教団のような組織を作っていたようです。

1934年生まれのシミオーニは、そもそもイタリア社会党に在籍、「自治論者、反共産主義者、活動的で野心家、冷笑的で頭脳明晰、高い文化水準」、と政治家になることを運命づけられているような人物だった。当時イタリア社会党では、ベッティーノ・クラクシーと双璧と言われるホープと見なされましたが、政治謀略に失敗して政党をはじき出されています。その後はモンダドーリ出版で、ピランデッリの作品の編集を務めるなど文化的な仕事に携わったのち、66年から67年まで、「ルッソー」センターという、金満家の子供達のためのカルト的教育センターを、米国からファイナンスされ運営していた時期もありました。

シミオーニは「ルッソー」にしても「スーパークラン」にしても、カルト的で秘密主義の集団を作ることに非常に長けています。その才能で、やがて76年にパリに渡り、国際諜報のセンターとなる語学学校「ヒペリオン」を組織するようになるわけですが、現代から振り返れば、各国の言葉を操る教師たちを一堂に集めるということは、まさに国際諜報にはうってつけの環境でした。

そういうわけで74年は、クルチョ、フランチェスキーニという初期の執行幹部が逮捕され、『赤い旅団』に残された執行幹部は、マラ・カゴール、そしてマリオ・モレッティ、プロスペロー・ガリナーリだけとなった。

『旅団』はここから大きく方向性を変えて行くことになります。

 

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