Tags:

占拠『鉛の時代』から2015: A Space Odyssey

Cultura popolare Deep Roma Occupazione Società

イタリア人を含める30カ国以上の国籍、130世帯もの家族が占拠している巨大な建造物があることを知ったのは、映画監督パオロ・グラッシーニとの雑談からでした。「大がかりな『占拠』だよ。週末は地下にあるチェントロ・ソチャーレ(反議会政治グループによる占拠文化スペース)で、レゲエだの、テクノだの夜通しパーティをやっていることもある」

その、噂のチェントロ・ソチャーレ『Spin Time Labs』に、わたしがはじめて立ち寄ったのは、今年の遅い春のことです。その晩、Spin Timeでは、ブラジルで路上生活をせざるをえない境遇に陥った少年たちに、自ら私財を投げ打って『住む』場所を提供、教育を行っているイタリア人社会活動家のための基金を募る「ラテン・フォークロア・フェスタ」が開かれ、その情報が別のコンテクストから人づてに流れてきたのでした。

Google マップを頼りにたどりついたそのVia(通り)の、目前に聳える巨大建造物はローマでは珍しい、戦後建てられたと思われる無機質で直線的な建築。どこかミース・ファン・デル・ローエの作品を彷彿とさせる風情です。比較的中心街にあるにも関わらず、周囲には店もバールも人通りもなく閑散として、ぐるり一周歩いても(巨大ゆえ、一周するとかなりの距離です)、なかなか入り口が見つからない。行ったり来たりしながらようやく見つけた玄関は、剥がれそうなライブ告知のビラでいっぱいの頑丈な鉄門でした。

重たいその門をギギギと軋ませ中に入ると、グレイッシュな石の階段、いくつも並ぶ飾りのない硬質のガラスとアルミの窓、植木のない中庭、やはり無機質で直線的な空間が広がっている。その空間を見渡しながら通り抜け、巨大なガラス扉を抜けた途端、ギョッとします。ギリシャ神話から題材をとったと思われる重厚なレリーフが設えられた正面玄関、そこには子供が工作で作ったような赤い花や青い花、星や月、手書きで雑に書いた『 Welcome』ポスターが、まったく調和を考えることなく、バラバラと無造作に飾られている。レリーフを見上げると、両手を広げて優雅に踊る、ふくよかな女神が悩ましげな視線を辺りに投げかけています。

その薄暗い玄関には簡素な机、カンパ用のボール箱が無造作に置かれ、数人の男女が呑気にタバコをふかしながら談笑していました。「パーティだね。会場はこっちだよ」とその男女に案内された地下へ続く階段は、埃にまみれながらも総大理石という豪華さ。キョロキョロしながら、さらに暗い地下へと潜っていきます。確かに、どこか遠くで音楽が鳴り響いているのですが、ところどころ染みのついた、黴臭い壁に囲まれた闇のなか、歩いても、歩いてもなかなか会場にはたどりつきません。不安な気持ちであちこち曲がりくねったトンネルをそろそろと通り抜け、ようやく人のざわめき、赤い灯が漏れてきて、ほっと胸を撫でおろしました。『異次元』へのちょっとしたタイムカプセル体験。見回すと、あたり一面にかなり鮮烈な色彩のウォールペインティングが、好き放題に描かれている。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

Spin Time Labs ホールのウォールペインティング

 

ただ、ただ広いホール、地下のスペースに大勢の人々ががやがや集まる影が大きく壁に映り込み、その薄暗さが、どこかあやしげでもありました。薄赤いスポットにもやがて目が慣れ周りを見ると、大勢の人々がビールの入ったプラスティックのグラスを片手に歩き回ったり、立ったり座ったり、大声で話したりと、賑やかに集っています。大きなイヤリングを垂らしたエレガントな初老のご婦人、背中が腰まで大きく開いた、真っ赤なナイトドレスをまとう美女、70年代風ファッションの若いカップル、ドレッドにピアス、サンダル履きの男の子、巻き髪に黒いベルベットのリボンを結んだ人形のようなキュートな女の子、ニコニコ笑いながら杖をついて、ホールをうろうろ歩く老人、哲学者のごとく苦悩に満ちた顔をした紳士が、白い髪をかきあげながらラテンミュージックに酔い痴れている。そんな大人たちの群れの足元では、南米やアフリカがオリジナルと思われる子供達と子犬数匹が、深夜だというのに駆け回っています。わたしはそのカテゴライズ不能、何とも形容しがたい、見たことのない光景に、瞬く間に魅了されたのです。

さらにあちらこちらを歩き廻って、これはすごい、と目を見張りました。ワンフロアを散策するだけでくたびれる、その7階建の巨大建造物は、長い間、閉ざされたままの廃墟だったゆえ荒れ果て、ところどころ埃が積もってはいましたが、床は総大理石、階段の手すりも磨き込まれ、地下一階にはAuditorium、600〜700人は収容できそうな、立派なコングレスホールもありました。しかしこんなに豪勢な建造物が廃墟になっていたとは。

「この建物は一体何なんですか?」「さあ、知らないな」「何だろうね、大きいよね」「病院ではないな」「学校でもない」「普通じゃないよな」「ああ、普通じゃない」「パオローネが知っているよ」「そうそう、パオローネに聞くといい」「パオローネ?」「さっき見かけたけれど、どこへ行ったのかな」「あ、あそこにいる」「本当だ。パオローネだ。あの痩せた背の高いスキンヘッドの彼がパオローネ。彼に聞いてみるといいよ」

こうしてホールに集まっている人々、ビールバーでバーテンをしていたスタッフらしき青年に尋ね、尋ね、ようやくこの『占拠』の責任者の一人であろう『パオローネ』に行き着きます。そして、あとから知ることになりますが、みなからパオローネ(Big Paolo)と呼ばれ慕われる、その人物こそが、『占拠』界伝説のパオロ・ペッリーニ氏でありました。穏やかそうでありながら、時に鋭い視線を放ち、周囲に気を配る様子から、なかなか一筋縄ではいかない人物とお見受けしました。赤いTシャツという普段着ではありましたが、その優雅な物腰は『在野の聖職者』、とでもいうような、おごそかな空気が漂よってもいる。それがペッリーニ氏を見た瞬間の第一印象です。

「はじめまして」わたしはツカツカと歩み寄り、自己紹介もそこそこ、「ところで一体この建物は何なんですか? なんでこんなに豪華なのですか」と尋ねます。そもそもそれほど礼儀知らず、というわけではないのですが、なんとなく周囲の雰囲気に飲まれてしまい、唐突な問いとなってしまいました。ペッリーニ氏はそれでもほとんど表情を崩さず、微笑みながら気さくです。「ここはね、昔『官僚』の宿舎だったんだ。それが閉鎖されて、まったく利用されずにずっと放棄されたままでね。なかなかいい建造物だろう?」

なるほど、市民の税金で建設されたローマ市所有のこの公共財産は、過去、官僚たちの憩いの場であったのか。総大理石の豪華さと重厚なレリーフ、本格的なコングレスホールの理由がここで明らかになりました。しかし、こんな贅沢な廃墟がローマの中心街にほど近い、こんな場所に存在していること、そして長い間、廃墟になっていたことを、おそらくローマ市民であっても、ほとんどの人が知らないのではないのでしょうか。おもしろい。そう反射的に思い、パオローネに詳しい話を聞かせてほしいとインタビューを申し出たところ、彼は一瞬考えたように真顔に戻って下を向きましたが、顔を上げ微笑むと「いいよ。午後においで。ミーティングをやっている時間にね」やはり気さくに言います。そのとき背後から「パオローネ、パオローネ」と誰かが呼んで、パオローネはその声に応えるように、ゆっくりと片手を上げました。そしてわたしに軽く会釈、「じゃあ、また。午後に」と言い残し、せつなげなラテンの歌声に乗って人の群れのなかへ悠々と消えていった。そのあと、パーティ会場で彼の姿を見かけることはありませんでした。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

あらゆる壁の隙間に、何かがこっそり描かれている

 

さて、「夕方」と漠然と言われても、いつ行けばいいのか、皆目見当がつきません。しかしとりあえず、行き当たりばったり、行ってみることにします。住所はすでに確認済み、さっそく鉄門のある場所へと向かいましたが、パーティの日は開いていた鉄門には大蛇のような鎖が巻き付けられ、頑丈に鍵がかけられている。建物の周囲を息を切らせて歩き回ってもまったく入り口が分かりません。『占拠』された巨大建造物、関係者でもないのに、普段はそうそう簡単には内部に入れてもらえないのかもしれません。しかたない。次のイベントまで待とう、と諦めかけ、近所のバールでエスプレッソでも飲んで帰ろうとしたときです。遠くを歩くアフリカ人の青年が、巨大建造物の中程でスッと消えるのを見かけます。何度も行き過ぎた場所ですが、どうやらあの辺りに入り口がありそうです。

見当をつけてその場へ直行すると、すりガラスが嵌め込まれた鉄柵のドアが、やはり錠が巻かれ、存在していた。実際これでは入り口かどうか外からはまったく分かりません。すりガラスに顔を近づけ、聞き耳をたてると、中から人の話す声が聞こえてきます。「ボンジョルノ」と大声で挨拶してみましたが、返答はありませんでした。さらにもう一度、「ボンジョルノ」と大声をあげても、シーンとしています。しばらくその場に佇んでいると、イスラムのヴェールを被った北アフリカ系と思われる中年の婦人が、ようやく顔を覗かせました。「何の用?」と眉を顰めて迷惑そうに聞くので、「パオローネに会いにきたのだ」と答えると、「パオローネ。さあ、いるかいないか、分からないよ」とドアを開けて、しぶしぶ、といった様子でなかに入れてくれた。この建造物の住人たちなのでしょう。踊り場になっているその周辺に集っていた数人のアフリカ系、南米系、そしてイタリア人の人々は一様に訝しげ、わたしを見つめます。

と、その緊張を和らげるかのように、さきほど道で見かけたアフリカ人の青年が、真っ白い歯をニッコリ見せて「ニーハオ」とおどけながら明るく挨拶しました。思わず吹き出して「残念。わたしは日本人です」と答えると、ごめんごめん、とさらに白い歯を見せて笑い、今度は「僕、韓国、大好きなんだ。テコンドー」と自身たっぷりにポーズを決めます。その様子があまりに無邪気で、つられて笑うと、彼もまた嬉しそうに「テコンドー、テコンドー」と繰り返しました。いずれにしてもアフリカの人々における、東アジア各国の認識はこの程度のものです。

こうして、ようやく建物内に入れてもらったのはいいのですが、地下に降り、占拠者たちのミーティングルームであろう、綺麗に片付いた、削ったばかりの木の匂いがするホールに行っても、電気は点いているのに、静まり返ったまま誰もいない。そうこうするうちに、この建造物のオーガナイザーの一人らしき青年が、角材を肩に乗せて歩いてきたので、「すみません。パオローネはどこですか?」と聞いてみましたが、「どこだろう、今日は見てないなあ」とそのままスタスタ歩いていってしまいました。ミーティングホールの廊下を挟んだ向かい側、かなり本格的な木工工房があったので、そこを覗いてみても、やはりシーンと誰もいません。小一時間、ミーティングルームに誰かが来るのを待っていましたが、結局その日はパオローネに会えず終い、とぼとぼと階段を上がり、まだ踊り場にいたアフリカ人の青年に「テコンドー」と挨拶をして帰宅するという結果に終わります。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

木工工房ではシンプルでも本格的な家具が作られる。職人さんの背後にある椅子も自家製。

 

さあここから、パオローネのインタビューが実現するまで、ちょっとした苦難が続きます。入り口にも慣れ、占拠者グループにも顔を覚えてもらって出入りするのは簡単になりましたが、スタッフのミーティングルームには、誰もいないか、あるいは大勢の人々が集まって喧々諤々の会議が開かれているか、イベントの準備で大忙しかのいずれかで、やっと見つけたパオローネもあらゆる会議に常に駆り出され、忙しそうに建物内を移動、挨拶はできても、なかなかインタビューの時間がいただけない。何度も足を運ぶうち、やがてパオローネも申し訳なさそうな顔をして「じゃあ、来週月曜6時に。ちょうど空いているはずだから」と約束してくれるのですが、やはり月曜の会議もなかなか終わらず、結局「悪い、来週に」ということになり、数ヶ月、毎週その巨大建造物に通うことになりました。

しかしその数ヶ月は、わたしにとって、実は楽しくもあったのです。木工工房で手作りの家具を作るプロの職人技を見せてもらったり、イベントスペースの壁に映し出された映画『2001年 宇宙の旅』のリハーサルを観たり、ヘッドホンをした若者たちが4人集まり、暗闇のなか、コンピューターに向かって、黙々と作曲をしているのを眺めたり、また独自に社会活動をしている外部の社会福祉活動家たちのミーティングに出席して激論を聞いたり、いろいろ勉強になりました。なによりローマに、こんなにたくさんのボランティアが、社会を変えていこう、貧窮をなくしていこう、移民の問題を解決しよう、とアンダーグラウンドに働いていることを知ることができたことは、新しい発見でした。

もちろん『占拠』は『違法』には違いなく、その方法論に賛否両論もあるでしょうが、実力行使という『違法』を冒してでも、困っている市民を助けよう、社会をよくしよう、と活動する人々のこのスピリットは、いったい何処から来ているのか、と考える日々でもありました。単純に過去、席捲した政治思想の流れとは言えますまい。これはやはり、信仰の有無に関わらず、イタリアの庶民のメンタリティに深く根ざした『宗教性』に大きく関係しているのかもしれない。『占拠』を主催するスタッフは、もちろんこの建造物に住んでいる人もいますが、基本、自らの住宅を確保するために、この建造物を占拠したわけではないのです。自宅から通いながら、巨大建造物の設備を少しづつ整え、掃除をし、住人たちのケアをしている人々が大勢います。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

Spin Time Labsの一画で、作曲中の若者たち

 

そういうわけで、イタリア人だけではなく、移民をもたくさん抱えた『違法』スペースという、どこかあぶなさを醸すイメージとは裏腹に、内部は雑然とはしながらも明るい雰囲気です。ミーティングに集まる人々も、10代の学生から、退職した元大学教授86歳とオールジェネレーション。アーティスト、ミュージシャン、教員、ネットラジオの主催者、主要政党勤務の人々、労働組合、環境保護団体、他の文化的『占拠』グループ、と多岐にわたり、たまに議論が白熱して緊迫ムードになることもありますが、通常はなごやかです。彼らの話を聞きながら、ここに集まる人々のほうが、国政や市政より、よほど真剣に社会問題を考え、世の中に貢献しているのではないか、と正直なところ、考えました。占拠スタッフの人々からも、何時行っても邪魔にもされず、居心地よく、自由にあちこちを歩き回って、議論を聞いて、知らなかった新しい宇宙に触れた次第です。

なお、この占拠グループは、最近ヴァチカンが会議に招き、協力を要請した『ブランドなんか、いらない』で有名なナオミ・クラインにいちはやく注目、この、今世紀最も著名と言われるカナダの新進女性知識人を招いて『アンチグローバリズム』をテーマにした大がかりな会議も開き、ウェブストリーミングでその様子を世界に向けて、配信もしています。

さて、ここからようやくパオローネ、Big Paoloのインタビューをはじめることにします。彼自身の社会活動家としてのストーリーもまた、イタリアの激動の70年代を知るためにも、非常に興味深い要素に満ちていて、『鉛の時代』の影響は、ここにも息づいている、と考えたことを告白したいと思います。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

Paoloneこと、Paolo Pellini氏

 

⚫️『占拠』という社会政治活動に関わるきっかけを教えていただけますか?

僕は今年で55歳なんだけれどね。僕らの年代の少年時代というのは、かなり若い時分から政治活動をはじめたものなんだよ。僕の場合、12、3歳から、自分の周囲を巡る社会問題に興味を持つようになった。

僕が当時住んでいた場所は『Magliana』というところで、そうだよ、あのBanda della Maglianaーローマのローカルマフィアーの拠点として70~80年代に一躍有名になった地域だ。マリアーナというところはね、ローマのなかでも特殊な地域で、街全体に社会問題が蔓延していた。今で言えば、そうだな、 Tor Bella Monaca(ローマ郊外、移民問題で、しょっちゅう衝突の起きる地域)のような地域かな。マリアーナはその時代、地域としては常に『格下』に見られていて、そこに住む人々も重要なローマ市民、とはみなされていなかった。特に70~80年代は、ローマのあらゆる社会問題、緊急に解決しなければならない社会問題がその地域に集約されていたとも言えるね。

60年代ーローマではそれを『バラッコーポリ』と呼んでいたんだがーマリアーナはバラックが建ち並ぶ、貧しい地域だったんだ。そのパラックには今のような外人の移民ではなく、イタリア人移民が住んでいたんだけれど、その大部分はイタリア北部に移民しようと南イタリアから北上してきた人々が、中継点である首都ローマにそのまま居ついたというケースが多かったよ。貧しさから逃れ、もっといい生活を送ることを夢見て、当時の南イタリアの人々はイタリア国内だけではなく、フランス、ドイツへもずいぶん移民しているからね。60年代は、イタリア人が大挙して国内、国外に移民した最後の年代。また、バラックに住んでいたのは移民だけではなく、第二次世界戦争中、空襲で家を失って流れてきた人々も多くいた。日本と同じようにイタリアも爆撃されたからね、焼け出された家族が大勢いたんだ。

そのバラックに住む人々のために、非常に巨大な公営住宅ーCasa popolareーが造られたのは70年代だけれど、空襲で家を失くした人々の『住宅』の問題が解決したのは、戦争が終わって25年以上も経ってからのこと。いずれにしてもいろいろな形の貧困が集約されていたマリアーナは、考えようによっては、新しい形の社会問題解決の場としての『実験的』な試みが行われていた、といえるかもしれないね。

 

romasparita_11117 (1)

Magliana 70年代の様子 Roma sparitaより

 

ちょうどそのころ、少年だった僕は、世の中、つまり自分の周囲に山積みにある社会問題に嫌でも直面せざるをえなかった。地域の教会、教区司祭の元に通いはじめてからだね、自分を取り巻く環境、貧困の問題というものがどういう状態で、何が原因であるのか、明確に理解するようにもなったのは。そのうち学校が終わると、友達と一緒に、自然と地域のPCI(イタリア共産党)オフィスに出入りしはじめてね。あのころ、マリアーナで僕たち少年が集ることができる場所は教会、PCIのオフィス、近所のバールぐらいだったから。僕らはそのなかでも特にPCIへ通うことが多かったんだ。あのころPCIは、マリアーナに強く根付いて、活発に活動していたんだよ。

高校に入学すると同時に、僕らは本格的な政治活動をはじめることになった。それがCollettivo(集団的)な利益を求めて社会活動をはじめたきっかけだね。つまり14歳で、当時の学生運動に参加したというわけだ。僕が高校生になった頃は『鉛の時代』の真っ最中の75年、それから2年経って、あの『77年』を迎えるわけだが、77年は、イタリアの学生運動にとっては非常に大きな意味を持つ年だから。その一年を経て、78年、社会が大きな変換を迎えることにもなった。あのころ、僕らの政治活動の中心となったのは『保障問題』でね、生活が保障されているか、保障されていないかで、世間は真っ二つに分かれていた。確実な仕事を持っている人、仕事を探しているのに見つからない人々、特に若者たちにとって、それは大問題だった。いわゆる『労働者』というディメンションでの運動が、社会に大きく影響しはじめたころだよ。イタリアで『労働基準法』ができたのも、そのころだな。

一方、社会的な見地から見ると、そのころの社会運動はある種『表面的』というか、現実の社会問題を解決できないような上部だけを繕った運動が繰り広げられてもいたんだ。少なくとも、深刻な社会問題をなんとか解決したいと真剣に考えていた僕たちにはそう見えた。つまり、その表面的、と思える『労働者』たちの政治社会運動は『冷戦』のメカニズムに、しっかりと組み込まれてしまっていた、ということでね。知っての通り、そのころのイタリアは『冷戦』のメカニズムに最も取り込まれた国だったから。そのメカニズムのなかでは、本質的、つまり実践的な社会活動というのはできない。そうだろう? 僕らはまだ少年だったけれど、そのことにすっかり気づいていたよ。僕らは現実的には西側のシステムにいて、東側のシステムとはまったく違う状況にあるのに、東側のそれを実現するなんて、無理だ。

あのころのPCIは非常にラディカルにStatus quo(現状維持)をプロテクトしようとしていたし、『民主主義』のコンセプトを守りながら『力』、『権力』を得ようとしていた。しかし僕ら学生たちは、民主主義という方法で、西側と東側のバランスをうまくとることは、多分、かなり難しいじゃないかということを危惧していたんだ。そこで僕らはさらにラディカルな方向、当時それは『極左』思想と呼ばれていたが、その流れのなかで、活動をはじめることになった。もちろん、今となっては僕自身、右とか左なんていう思想対立は無意味だと思っているけれどね。問題はそんなところにはない。われわれの社会はそんな表面的な二項対立では解決できない、根本的な問題を抱えている。

⚫️『極左』というと、武装もしていたのですか?

いやいや(笑)。ラディカルな『極左』と言っても、僕らの活動は他のグループとは全然違うもので、当時、なんでもかんでも『極左』と一括りにされてはいたが、実のところ、それぞれのグループには距離があったんだ。僕らは武装もしなかったし、Clandestino(非合法)な活動もしなかった。アヴァンギャルド(武装しての)な活動という方向性ではなく、『社会』という定義で葛藤に向かったのだからね。貧困をなくし、集合的利益を確保し、富が分配される社会を目指そうと動いていた。

その『アヴァンギャルドに、ではなく、社会の公共性、集団的利益を追求する』というコンセプトは、ある意味、80年代にイタリアに訪れた危機を救うことになったかもしれない、と僕は思っているんだよ。80年代、イタリアでは文化の平板化がいよいよ加速しはじめたからね。今でもあちこちでオーガナイズされるチェントロ・ソチャーレというムーブメントは、僕らが提示したコンセプトから生まれている。そしてその動きは社会に重要な意義を持っていたんだ。ある意味、当時は敵対していたPCI的な思想も、遺産として受け継いでいるかもしれない。つまり、チェントロ・ソチャーレというのは、自分たちのテリトリーに戻って、文化をAuto produzioneー自分たちで生み出していく、というコンセプトだからね。それはいわゆるマス消費主義、民放テレビ文化に対抗したスタイルでもあった。あの時代、マスメディアの影響がより強力になり、一般大衆を混乱させるような価値観が流布しはじめ、その傾向を嫌悪する若者たちが大勢いたんだ。

チェントロ・ソチャーレというスペースにおいては、実験的な自主文化というものを構築するのが目標でね。僕らが僕らのための音楽を作り、僕らのアートを生み出す。そしてその自主文化スペースで生まれた音楽が、イタリアのポップミュージックに大きな影響を及ぼしたりもしている。イタリアに生まれた一番最初のポップ・ミュージックはチェントロ・ソチャーレから生まれているんだよ。振り返って過去を眺めると、チェントロ・ソチャーレではある種の文化の有り様が守られたともいえるんだ。経済発展モデルが大きく変容を遂げた時代にも、チェントロ・ソチャーレはローカリズム、独自の文化を貫いていたんだから。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

パオローネが気に入っているウォールペインティング。写真からは見えないが、何重もペイントされ、立体感のある質感。

 

そうそう、僕らが中心となったムーブメントで成功を収めた数少ない政治活動のひとつに、Anti Nucleare ー反原発運動があるんだけれど、これは70年代から継続されていたものでね。僕らは『原発』について、常に社会と葛藤してきたんだが、80年代の終わりにイタリアでは『原発ゼロ』が劇的に決定され、僕らのAnti Nucleare運動は勝利を収めることになった。最初のころの僕らの運動はとても弱々しく、小さい規模のものだっし、70年代、80年代初頭は、『左翼』と呼ばれる人々も原発に賛成していたんだからね。労働組合も、労働者が『原発施設』で働くという、新たな職場の機会を得るという理由で賛成、『原発』こそ発展的だと捉えるメンタリティだった。僕らの存在は邪魔でしかたなかったと思うよ。

ところが89年、その傾向が大逆転。イタリアは原発建設を停止することに決定(2011年の国民投票でも反対多数で『 原発ゼロ』を再決定)。これは幸運なことだよ。この原発問題はやがて、環境問題を話し合うきっかけにもなったしね。労働組合は仕事の確保という定義で原発を推進していたが、われわれは『原発』は、あらゆるすべての『死』、終末に通じると考えていた。何より『原発産業』は『軍需産業』と強力なつながりを持っているのだから。イタリアは、『ベレッタ』、『フィンメッカニカ』など、世界有数の武器産出、輸出国でもあり、原発との連動なんて危険きわまりないだろう?

 

1511067_975406852483394_1670263431522792589_n (1)

反原発がテーマのウォールペンティングも。

 

 

90年代、『ベルリンの壁』が崩壊したのちのこと。当時のイタリア共産党の党首ベルティノッティと、われわれ『極左』と呼ばれていたソーシャルグループとの間で話し合いが行われ、互いに歩み寄ることができたんだ。それはある意味、イタリア共産党が自らのあり方に気づいた歴史的なことだったとも思うよ。壁の崩壊とともに伝統的なイタリア共産党は解散、新たなRifondazione comunista(共産党再建派)として出発を迎えたときだ。そのときから僕らはもう敵対するグループではなくなったし、原発の問題を解決したのち、 Anti guerraー反戦争で共闘することで同意。大きな平和主義運動を生み出そうという考えで一致した。

その後は、戦争に反対するために、各地でデモ集会をオーガナイズしたよ。第一、第二イラク戦争からシアトル、ジェノバのG8での抗議まで一貫して、僕らは『戦争』に反対。特にジェノバでのG8デモは、僕らにとって非常に大切な抗議だった。9・11の2ヶ月後のことだったからね。テロリズムの問題、そして原油問題、これらは世界にとって深刻な問題だ。もちろん、2008年以降に訪れた経済危機による、ローマ市民の生活の著しい悪化をも僕らはとても心配している。僕らの闘いは、これからもまだまだ継続していくよ。(イタリアでは現在、『共産党』という名の政党は他の左派グループとの合併により消滅)

⚫️ローマ市は、現在の市民の住宅問題の窮状を解決できるほどの不動産を所有していますか?

もちろん持っているよ。しかしローマ市そのものが、自らの公共財産の社会的な利用価値を認識していないというのが実情なんだ。現在のローマ市のメンタリティは、所有している公共財産を、長年の予算管理のずさんで危機に陥った市の財政を解決するための手段としか考えていないし、市民の窮状には見て見ぬふりを決め込んでいる。

彼らは現在放棄されたままの不動産、また現在使用中の不動産、いずれも効率的に利用できていないように思える。たとえばスキャンダラスな『affitto(家賃)zero』という一件があったが、それが全てを物語ってもいると言ってもいい。すなわち過去、ローマ市がある民間機関を信頼し、ローマ市所有の不動産管理をまかせていたところ、その民間機関は、ローマ市から預かった不動産を、あろうことか国の『上院議会』に貸して、そこから賃貸料を取っていたことが発覚した。ローマ市は無償でその不動産を民間機関に任せていたわけだから、国はローマ市に損をさせたうえに、さらに上院議会に賃貸料を払わせる、と二重の損失を負っている、ということになるよね。まったく信じがたい予算の無駄、ひどい話だろう?

僕らは現在、僕らのこの『占拠』が合法だと認められるように、法的な闘いをも開始したところなんだ。廃墟となっている市所有の不動産を、社会問題の解決のために使用することを法的に認めてもらうために、ローマ市相談役たちによる投票も予定している。しかしローマ市が今のところ僕らに答えているのは、来年のGiubileo (聖年)に向けた準備のために、国が予算を捻出できないため、ローマ市は所有財産を民間企業に売却を考えている、との「ほのめかし」だ。市は『聖年』開催のために不動産を担保にして500億ユーロの現金を得たいと思っているらしい。

もちろん、その500億ユーロは救済を必要としている市民のためにはまったく使われないわけでね。ローマの公共財産はローマ市のものではないんだよ。みんな知っていることだが、それはローマ市民すべてのものなんだ。またローマ市は、現在の財政危機状況を脱するために公共の不動産を売却して350億ユーロを得ることを決定したが、それは借金そのものを返済するためではなく、借金の『利子』の返済のためだというんだから。市の借金はこれからも、ただただ増え続け、市民の税金で建設され、維持されてきた公共財産は不動産マーケットに乗せられ、雲のようにかき消えてしまう。ローマには明らかに解決しなければならない社会問題が山積みだというのに、『市場原理』に沿った不動産の処分で、長い時間をかけて市民たちが築いたものが、雲散霧消となるなんて、おかしくないかい? 本来なら公共財産は、家を失って困窮している市民や、仕事のない若者たちに、新しい仕事を構築するために使われるべきじゃないのかい?

⚫️『占拠』した、この建造物ではどのようなことが行われているのか。その理想は?

この建造物の占拠に踏み切ったのは2013年、10月12日のこと。『住む場所の確保』の権利、移民の人々が異国で問題なく生活できる権利、労働の権利、それらの当然の権利の保護を連動して訴えていこうというのが、僕らの当初からの目的だった。と同時に『占拠』というリアリティを生きながら、公共財産の定義というものを改めて熟慮しようと思ったんだ。現在直面している問題を、例えば住む家がないから「占拠してスペースを独占する」というような安直な目先の理由ではなく、ローマ市民が直面している現実、あらゆる社会問題の根本的な解決を目指す。それが僕らの目標でもある。

この建造物の2階から7階までは『占拠者』の住居として、約130世帯が住宅として使用していてね。そして、今僕らがいる1階が、居住者のための社会奉仕、ソーシャルサービスのためのスペース。彼らがどのような問題を抱えているかを丁寧に聞いて、解決の方向性を考える場でもある。例えば仕事を探している人のための窓口もあるし、移民の人々たちのためには、滞在許可に関する裁判を助ける弁護士の窓口も用意している。また、ちいさい子供たちの教育のために学校も作ったんだ。9月にはこのスペースの中にスポーツジムを開く予定でね。それはもちろん住民の健康維持のためのものだけれど、外部の人々の参加も可能にしようと考えている。したがってこの1階のスペースは、公共財産の社会的利用のための実験的なスペース。

 

IMG_3098

広々としたロビーに住人たちのバギーカーが並んで、壮観。

 

一方、地下、 コングレスホールがある階は文化活動のスペースとして、外部の人々のためにも解放している。さらに地下二階が、経済的な利潤を目的としない生産スペース。たとえば木工工房では、リサイクルの木材、つまり廃材を使って、この建物内で使う椅子や机、その他必要な設備をすべて僕らの手で制作している。そう、チェントロ・ソチャーレのビールバーで売っているビールも、すべてオーガニックな素材を使って、僕らが発酵させて作ったものだよ。さらにその生産スペースは仕事を得るためにスキルを必要とする若者たちに、昔ながらの伝統的なテクニックを教える教育の場ともなっている。この地下スペースは1600平米あるんだけれど、文化、仕事、健康というテーマで、都市生活をよりよく変える、という目的を持つ外部のグループに解放しても、充分な広さがあるからね。君も、よくこのスペースで外部の人々がミーティングするのを見ただろう?

たとえば別の場所を『占拠』しながら強制退去となったグループにも、この地下を提供し、停止してしまった彼らの文化活動を継続できるような配慮もしているし、音楽、それから本のプレゼンテーション、また政治活動や文化的なミーティングも、自由に行われているんだ。もちろん移民の人々にも場を提供しているから、毎週セネガル人コミュニティ、またソマリア人コミュニティの会合も開かれている。さらに政党に属する人々のミーティングの場にもなるしね。最近では教区司祭が僕らに協力を要請もしてきたんだよ。その教区司祭は、貧困に苦しむ人々のために食料を配給しているのだけれど、800リットルのミルクを配給する場として利用させてほしいと言ってきてね。もちろん、僕らは喜んでその要請を引き受けるつもりだ。

今、僕らはこの『占拠』に関して、ふたつのストラテジーを構想しているところなんだ。ひとつはこの巨大なスペースを必要としている、できるだけたくさんの人々に提供すること。もうひとつは社会問題を純粋に解決するための集合的スペースとして、この場を守り、闘っていくこと。

誰もが経済利潤と政治闘争に夢中になっていて、緊急に解決すべき社会問題には目をつぶって見ないようにしている。本来ならローマ市が取り組まなければならないことを、僕らがやろうとしているというわけだが、よい未来をつくるためには、誰かがそれをしなくちゃいけないだろう? ならば僕たちが、全力で未来に取り組んでいけば、なんとかなるんじゃないかと思っているんだ。

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

誰もいないミーティングルームで、無心にヴァイオリンを弾く青年を見かけて。

追記:秋も深まる10月18日、SpinTimeLabsのアクティヴィストのひとり、『ターザン』の愛称を持つアンドレアさんがフランチェスコ教皇に手紙を書いたところ、教皇は彼らの『占拠』を温かく勇気づける返事をくれたそうです。Gardian紙が記事にしています。すごい! *カステル・ガンドルフォの建造物は、彼らのグループが同じオーガナイズで占拠しているもうひとつのスペースです。


RSSの登録はこちらから